花咲く者たち/なぜ我々は花を前にして
●四月のベランダ/猫の手も、とはこのこと
●四月の思考/なぜ我々は花を前にして
今日は四月二度目の大植え替え&種まき日であった。俺は働きづめで疲れきっていたが、ようやく得た一日の休みをベランダに費やすのはベランダーたる者の使命である。やらないわけにいかない。時はまさに春だからだ。
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今月はもう大忙しであった。仕事がとかいうことではない。ベランダーとしての忙しさだ。
先月開花を告知したアマリリスが四つの大輪をつけた。例の真綿色したシクラメンはかなり花を小さくさせ始めたが、オブコニカの方は快調に咲き続けている。
向島の先輩ベランダーが『ボタニカル・ライフ』発刊のお祝いと称して八重桜の鉢をくれた。俺は自転車をぐんぐんこいで行って、直径十五センチほどの鉢をカゴに入れ、明るく礼を言ってまたぐんぐん帰ってくる。
「都会に三年慣らした桜だから、そうそうの排気ガスなんかには枯れないよ」と先輩ベランダーが言う通り、桜はみるみる赤黒い蕾を開き、枯れかけたアメン桃(こいつも素晴らしかった。赤、白、ピンクの花がびっしりつくように、あちこちに接ぎ木された美しきフランケンシュタインだ)の横で春を謳歌し始めた。
その近くで濃い紫色をしているのはツバキの花である。これはなんだか心が浮き立って花屋で買ってきたばかりのやつ。それから、部屋に取り込んでおいたオンシジウムも三つの枝を出し、かつての盛りほどではないながら黄色の花を開き始めている。お前は一体いつまで俺に恩返しをするつもりなのだ。もういいから少し休んだらどうだ、と心にもないことさえ言いたくなるくらいの花ざかりだ。
さらに俺を喜ばせたのはアンスリウムに花がついたことであった。図鑑には水やりを控える時期とか、肥料をやる時期だとかが事細かに書いてあったが、俺はそんなものを守った覚えはない。数十の鉢を管理するのにあっちは水をやらず、こっちに少量、でもあちらは大洪水だなんて、そんな記憶力は人間の限界を超えている。そんなことをしたら最後、いつどいつにどれだけやったかを忘れ、一ヶ月後にすべての植物が死に絶えてしまうに違いない。
だから、まあ、俺は土の具合だけを見て水をやり、葉の調子が悪ければアンプルを差し、油粕を巻き、たまに思い出したようにカルシウムみたいな粒をくれてやる。ただ、それだけのことでも花が咲くとは、まったくなんという驚きであろうか。
まだ赤い部分は小さい。黄色い穂のような苞(ほう)もミニトウモロコシみたいな具合である。それが毎日少しずつ大きくなる。初めはいつものように赤っぽい葉が出てきているのだと思っていた。開けば変わらず緑の葉になるに違いないから、ほとんど目にもとめていなかった。だが、ある日ふと見るとそいつが咲いているのだった。
ベランダー界に狂い咲きという言葉はない。これは俺の信条である。だから、「今どき咲くなんておかしいよ」などと顔をしかめるような奴らすべてを、都会派生物の名において軽蔑する。都会暮らしを余儀なくされた彼らは、自然のサイクルそのままで生きるわけにはいかないのだ。そんな時代遅れなことをしていれば、種が絶えてしまう。だから、どんな環境にでも慣れ、必ず生きようとする。そして、図鑑に書かれていない時期に花をつける。
そんな都会の植物だからこそ、俺は我がことのようにやつらを愛し、というか同居しているのである。そして、都会でも変わらず季節を守るような奇特な行動をすれば感動し、変節すれば変節したで誉め讃える。
それはともかく、四月は俺たちベランダーに勇気を与えてくれる。これは植物が決して変節しない部分による恩恵である。それまでのいい加減な苦労が偶然実り、花がつき、芽が出まくるからだ。植物は常に俺たちの予想を越える。世話をしていなかったやつが突然花芽を飛び出させ、そろそろ捨てようと狙っていた枯れ木からミドリ物質がにじみ出てくるのである。
だから、本当は植物に対して俺たちが出来ることなどほとんどない。水さえあれば、奴らは勝手に変節したり、頑固に伝統を守ったりしながら、気ままに行動するだけである。
さて、あきらめていた藤からも新芽が出ている。俺は藤を咲かせる秘策を先輩ベランダーから教わっていたので、あわてて受け皿を変え、そこを水びたしにしてショック療法を開始した。レモンバームとオレガノはさすがに伸び過ぎたので、収穫というものをしてみた。一方いっこうに収穫せずに置いてある葉ネギはすっかり普通のネギくらいの太さになりつつあり、五日ばかり前にとうとうネギ坊主をつけやがった。
ああ、俺は何をどうまとめて書けばいいのだろう。それら植物どもの行動のいちいちを見て俺はぴょんぴょん飛び上がり、土をひっかいて酸素を増やしてやったり、太陽の位置を見て場所替えを行い続けているのだ。
そのすべてを書くことは不可能である。
ともかく、四月は忙しい。
ベランダーは寝る間も惜しんで、無鉄砲な計画を次々に実行し、明日こそあの鉢を移動させようとか、あいつに御礼肥をあげなくちゃいけないとかブツブツ言いながら寝つくのである。
猫の手も借りたいというのはこのことだろうが、残念なことに我々はそう出来ない。むしろあいつらは葉をむしゃむしゃ食い、機嫌を損ねると鉢を倒すからだ。
つまり、我々はケモノの手さえ借りられないのである。だから、ますます忙しく孤独なのだ。
気にかかっていたトイレのレモンポトスを苦労して運び(なにしろ繁茂する葉だの茎だのがからみ合っているのだ)、新しい土を与えようとすると再生紙で出来た鉢の底が抜けた。腐っていたのである。俺はあわてて鉢を替え、たっぷりと培養土を盛ってやる。
前々から蒔きたくて仕方のなかったチャイブとラベンダーの処理をし、カイガラ虫にやられて弱ったコーヒーの脇枝をすべてばっさりと切ることにして窓辺からベランダに移す。さらに、取材された時にもらったアジサイ二鉢をひとつにして霧を吹きかける。やはりインタビューされた時にいただいたイタリア野菜の種は三種類のすべてに芽が出ているから、泣く泣く間引きのようなことをしなければならない(余った種はそのうちボタニカル読者にプレゼントしようかと考えているところだ。なにしろ、どう見ても農民用のパッケージだから種が畑ひとつ分くらいある)。俺の家で行われた花見大会の参加者が持ってきてくれた料理用のシャンツァイや(島田雅彦氏と奥泉光氏、この作家界屈指の料理上手に感謝するべきだろう。おかげで俺のベランダに愉快な仲間が増えたのだ)、スーパーで入手したルッコラも土に差してやったらすっかり根がついている。読者から送られたヒマワリの種もぐんぐん育ち、部屋の隅に置いてあったイシダテホタルブクロにも花がついているから、俺はあわてて養生を急ぐ。
さて、ふと見ればアルストロメリアも咲き始めており、俺はたまった疲労と急激な運動による目まいを無視して息を切らせながらそいつを部屋に取り込むことにしたのであった。
同じく咲いているアジサイは外なのに、なぜ俺はアルストロメリアを窓辺に移動させたのだろうか。ほとんど見上げる人もいないと確信しているにもかかわらず、抽象的な他人の目を俺は感じていた。それで、その他人の目になるべく近いところを選んで、アルストロメリアを置いたのである。
道ばたで鉢を育てるベランダーたちも(オン・ザ・ロード派と俺は呼んでいる。彼らは園芸界のジャック・ケルアックだ)、よくそういうことをする。家で育てて咲いたところを道に出し、またはより咲いているやつを前に移動させるのだ。かつてはその行動を俺はささやかな自慢だと解釈していた。なにしろこっちだって、初めから咲いていたアジサイは窓辺に置こうとはしないのである。育てていたアルストロメリアを無意識に優先させてしまう。
だが、すべての作業が終わってベランダに向かい、ぐったりと腰を下ろした俺はさっき感じた「抽象的な他人の目」のことを考え始めた。そして、ベランダー同志たちが、またこの俺自身が育てた花を人目に触れさせようとする理由が単純に自慢だけには収斂しないことに思いあたったのである。
俺はそのアルストロメリアの花が長くは続かないことをよく知っていた。いや、そもそも今咲いたこと自体がひとつの奇跡であった。どんな世話をしようと、あるいは俺のように放っておこうと花は咲くときに咲き、咲かないことを選びもするのだ。だから、花は突如として生の饗宴を開始し、短い時のうちに散っていってしまう。
俺たちベランダーはその気まぐれ、その奇跡に率直な感動を覚えながら、すぐに奇跡に終焉が訪れることを感じる。花を前にして何も関与出来ない自分を認識し、たった一輪の花に対して「かなわない」と思い、俺一人の視線では存在の重みが釣り合わないと考えるのではないか。短く終わる花、その不思議な生命の開きを称えるには二つの目ではとうてい足りない。そう感じるからこそ、我々は花を他者に差し出す。どうか見てやって下さい、私の卑小な目ではこの奇跡を受け止めきれないのですと心のどこかで考える。
花見だって同じことなのかもしれない。桜が咲くから繰り出すのではなく、我々はそれが散ってしまうからこそ急いで外へ飛び出すのだ。見頃はいつかと気をもみ、ああ雨が降った、風が吹いたと嘆き、より多くの目で桜の花の盛りをあがなおうとするのである。
俺のベランダに話を戻せば、アジサイはもらった時にすでに咲いていた。だから奇跡の感覚は半分以下になっているのである。咲いているからこそ売っていた。だが、もしもそれを蕾の状態で入手しており、やがて咲いたのであれば、やはり俺はなるべく人目に触れるようにと置き場所を作ったに違いない。
春はそこら中のベランダーの上に訪れ、道ばたにベランダに屋上に様々な奇跡を巻き起こしている。そして、その奇跡を前にして全国のベランダーたちは等しく自らの視線の軽さを物悲しく思い、咲き誇る花を他者の前に差し出す。
たぶん、本当に見てくれる他人の目ではまだ足りないのだと思う。一輪の花に見合うだけの多くの目、より重みのある目を求めて、ベランダーは焦燥に駆られ続けるのだ。その時、我々の意識の中に「抽象的な目」が設定される。自分以上に強い目を花に捧げようとする。
きっと太古の昔、花こそが神を要請したのだと俺はベランダの前にへたり込みながら思いついたのだった。人類史上、おそらく神以前に花があった。その花の開きが我々人間の思考の中に「抽象的な目」を呼び入れたのである。バリで人々が神に花を捧げる時、あるいは日本の寺や家々で仏花を立てる時、神や仏が先にあるのではない。花こそが先にあり、その奇跡を余すところなく受け取ってくれる存在が後から必要になったのである。
原始宗教の基にあるのはそうした生命の開きに感応する精神であり、自己の視線の軽さへの焦りなのだ。だとすれば、花が咲く度に誰か自分以外の目に見てもらおうと苦心する俺たちベランダーは、古代と現代を行き来する能力を持つ人間だということになる。
俺はそう得心し、立ち上がってアルストロメリアの方へと歩いた。人類の身勝手な思いとはまったく関係なく花は咲いていた。やつにとってはどんな宗教的な思考も生きるのにまるで必要がない。それでも窓辺に移されたことで花が満足しているようにも見えるのは、俺の中の野蛮人が騒いでいるからであった。
ベランダーが春に突き動かされ、脳の中に潜む蕾を開花させられているからであった。