MAY

緑/シャクヤク

●五月のベランダ/緑は萌える(1997,5,20)

 芝居で忙しくしていた。寝て起きて舞台という日々が続く中、しかし植物どもはいたって元気だった。これも五月という季節のおかげである。
 四月の終わりあたりから風が暖かくなる。すると、それまで生きているのか死んでいるのかわからなかった植物どもの間に、なんとも形容しがたい気配が充満する。
 この気配は微妙で、しかも露骨なのだが、どの植物が発しているのかを同定することが難しい。まるで鳴いている鈴虫がどこにいるのかわからないように、植物どもはベランダ中に気配だけを発する。
 そこに五月が訪れる。途端に気配は濃い緑色となってこの世に姿を現す。
 短く切り詰め過ぎたのではないかと心配していたムクゲの、すっかり枯れてしまったような枝の根元あたりに、虫でも付いたのかと思わせるほど力強い緑が噴き出す。かと思えば、藤の枝のあちこちにも薄緑色の染みが点々とつく。ボケもまた、落ちた葉をビデオで再生するかのような勢いで緑を染み出させる。
 これら小さな緑たちは、どれも決して植物の一部には思えない。植物の体からあふれ出る寄生虫のように、あるいはどこか外からやって来て木々に取りついた未知の生物のように、緑たちは枯れ枝の隙間から本当に奇跡のように出現するのだ。
 奇跡はそのまま五月前半まで続く。小さなイモ虫のような緑たちは信じがたい速度で変態を繰り返し、錯覚のような不思議さで葉となり、枝となってぐんぐんと伸びていってしまう。一日が一ヶ月に思えるようなスピードで、それら緑たちはベランダの様子を一変させるのである。
 あれよあれよという間に、植物はその全体像を変える。今ではもう、ムクゲは濃い緑の葉を一斉に空に向かって突き出しており、ギザギザしたその先端の具合のせいで、あたかも緑の火を噴射しながら地に突き刺さる宇宙船のようになっている。あるいは、藤は長く伸びた釣り糸のような枝のそれぞれに、ゆったりとした葉を付けて風に揺れている。最初に赤紫色をしていたブドウの生命はいつの間にか落ち着いた緑に変化し、広い葉となって太陽の光を吸収し続ける。
 この奇跡はもちろん、ベランダでだけ起きるのではない。公園でも近所の庭先でも、なんならアスファルトの割れ目でも五月は容赦なくその奇跡を起こす。緑という名の奇妙な物質は東京中に降り、一気に姿を現してそれぞれの変態を遂げるのだ。
 俺はその短いがすさまじい勢いの緑たちを前にして、ほとんど言葉を失う。宇宙人襲来というのはこういうことを言うのではないかと感じ、人間に気づかれぬまま地球に住みついた緑たちに敬意を表したくなる。いったんこの世に住みすいてしまった緑たちは、五月後半から見慣れた葉や枝の形となって奇跡を隠蔽してしまうから、我々人間は何事もなかったような気になって澄んだ空気を吸う。
 しかし、植物はすでに狙っている。次の五月まで生き延びて、再びあの地球外の生命を受け取り、それを体内に呑み込んだまま成長しようとたくらみ続けるのだ。そのたった二週間ほどの時期のために、彼らが生きているような気さえ、俺にはする。
 つまり、植物は唯一、地球のシステムからはみ出してしまっている生命体なのだ。外部から奇妙な緑色の物質を取り込んで、静かに何かを待ち続ける。その何かは冒頭に書いた気配と同じようにわからない。不穏で、しかも悦ばしくもある何か。
 ひょっとするとそれは、地球内生命の滅亡かもしれないと感じることがある。その時こそ、彼らの内部に取り込まれた緑という名の宇宙的物質がこの地球を覆う。
 植物とともにその日を願っている自分に、俺は時おりひどく驚く。


●五月のシャクヤク/切り花の帝王(1997,5,26)

 今日は幸せだ。もう最高といってもいい。
 出窓にあったアルストロメリアの残骸と、長く働いてきたオブコニカの消えかかる花をすべてベランダに移して、そこにシャクヤクをびっしりと並べてあるからだ。
 鉢植えのシャクヤクならベランダですくすくと育っている。出窓の方にあるのはどれも切り花で、つまり俺の植物生活としては少々変わったことをしているわけである。
 何年前だったか、仕事の完成祝いにシャクヤクをもらったことがあった。強いピンクの 花を持ちきれないほど数十本。家に持ち帰っても、そのすべてを入れるだけの花瓶がなく、仕方なしにコップにまで挿して部屋中に置いたものだった。
 香りの強いその花々は何日もの間、部屋の中で香り続け、すさまじくゴージャスな艶姿を俺に見せつけた。なんというか、まさにその数日間、俺は夢見心地でいたものである。以来、俺はシャクヤクを贅沢なほど大量に買いたいと願い続けてきた。
 去年は失敗だった。なじみの花屋が切り花としての洋シャクヤクを扱っておらず、ついつい買いそびれたのである。だが、今年はうまくいった。目当ての洋シャクヤクを仕入れている店を見つけ、そこからまず十本ばかりのシャクヤクを買い込んできたのだ。
 そして、二日後の今日、開いた花の美しさを確かめたあとで、俺はさらに二十本のシャクヤクを買い足した。そして、ありったけの花瓶に生けて、出窓に並べたのである。
 何が素晴らしいといって、まずは蕾の充実ぶりだ。和菓子ほどの大きさの丸い蕾は、いずれ咲き出る花をすべて固めてダンゴのように縮こまっている。そして、透明な蜜をうっすらと分泌させながら、ふくらんでいく。
   ほころび始めた蕾はすでに元の二倍の質量を持ち、やがて最も外側の花びらをほっこりと開く。だが、その花びらはどれも内側に向かって見事な曲線を描いており、すなわち中に隠れた異常な量の花を見せたがらずにいる。
 やがて、すべてが明らかになった時、我々は驚きのあまり言葉を失う。何百という花びら(それが植物学的に花びらと呼ばれるべきものかどうかは知らないし、別に知りたくもない)の塊がいっせいに外側に向かって伸びをして、それが小犬の頭くらいになってしまうからだ。花びら一枚々々に触れるとその柔らかさはビロードのようである。花全体を注意深くつかむと、まるで子供の頭を握っているかのような重量感がある。ふかふかとして、しかし弾力があり、内部に不思議な生命が宿っているような感触がする。
 そして、びっしりと茂った濃い緑の葉。
   以前、アマリリスの項でも書いたが、俺は美しくゴージャスな花と野性味を帯びた葉の合体に弱い。したがって、シャクヤクは切り花界における俺の理想なのである。
 だが、アマリリスと違って、シャクヤクは数十本ないと俺のハートを刺激しない。おそらく、最初の出会いが無意識にインプットされているのだろうが、それにしても数本あるだけではむしろ寂しい。咲き誇った花々が重なってどこまでが一本の花かわからないような状態になっているのが好きなのだ。その意味では、シャクヤクはどこかで満開の桜が感じさせる幸福感を持っている。
 もちろん、蕾がぎっしりと並んでいるのもいい。これから始まるであろう贅沢な饗宴の予感もさることながら、たわわな花をぎゅっと縮めているその生命力が俺の心臓をつかんで震わせるのである。蓮に似て時おり曲線を描く太い茎にもその生命力はみなぎっているし、何よりその素っ気ない硬さがたまらない。
 立てば芍薬、座れば牡丹というけれど、俺にはどうしてもこの花が女のようは思われない。女だとすれば、それはあまりに頭のでかいやつで、とてもじゃないがつきあいきれないのだ。華々しいのはいいのだが、舞台女優にありがちな顔ばかり大きな女という感じで俺の求める女性のプロポーションとはかけ離れ過ぎているのである。むしろ、シャクヤクは人間としての女などにはありようもない美しさを持っているからこそ幻想的で、しかも現実的かつ豪奢な存在感を誇るのだ。
 一言で言えば、シャクヤクの魅力は茎の先端に凝縮された重みである。ある時は堅く閉じこもり、ある時はふかふかと広がってなおかつ花びらの身を寄せ合う重み。だから、買ったシャクヤクを家まで運ぶ時から、俺は幸せで胸が潰れそうになる。重みで満たされているその思いはちょうど、よく慣れた猫を持ち上げている時の喜びにも似ている。
 たぶん、シャクヤクは獣なのだ。美しい獣。しかも手垢にまみれた比喩として女を対象とする場合と違い、本当に毛並みの艶もよく、しかも我々人間と体型を異にした他者としての獣。
 だから、こう言い直そう。
 シャクヤクの魅力はその体重にあるのだ、と。その胴体の先に秘めた獣の重みと硬さと柔らかさ、あるいは獣にはあり得ないその花の美しさこそが、シャクヤクという植物の重層的な魅力なのだ、と。
 もし、俺に切り花をくれる気があるのなら、シャクヤクにして欲しい。それも数十本ものシャクヤク。それさえあれば、俺はいつまでも部屋にこもって多幸感にひたっていられる。


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