アボガド/ニチニチ草(一頁=アロエ/ぼさ菊)
●十月のアボガド/キリストとしてのアボガド
ニチニチ草はボタニカル・ライフ初期の頃から、俺のベランダにいる。
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駅前のスーパーでアボガドを買った時は、まだその野望はなかった。
ところが、皮をむいて包丁を入れ、さいの目に切って醤油をたらしたあたりで、鉢のことを考え始めていたのである。つまり、小皿にわさびを乗せる直前のことだ。
食事中にはすでに、心はアボガド育成にしか向いていなかった。だから、作ったアボガドサラダの味を楽しむというよりは、これくらいの熟し具合なら種もやる気になっているのではないかとか、包丁で傷つけてしまったが大丈夫だろうかとか、そんなことばかり考えていた。他のメニューについては、まったく覚えていない。
めしを食い終えると、茶碗を片づける暇もなく窓を開け、ベランダを見回した。アボガドの種を植えるにふさわしい鉢はどれだろうかと目をぎらぎら光らせたのである。
アボガドの種というやつは、実に頼もしい風体をしている。
がっしりとしたアヒルの卵くらいで重さもあり、しかも黒光りなどしている。
考えてみれば、質量において果肉より種の方が大きいわけで、俺たちは種に金を払っているといってもいいのである。おそらく、その比率が逆だったら、アボガドは今ほどの高級感をかち得ていなかっただろう。いわば、包装紙ばかりが厚い御歳暮みたいな果物なのだ。
実際、アボガドの種を捨てる時ほど、その不条理な重さに悩むことはあるまい。
あまりの重さで種は他のゴミをかき分け、必ずゴミ箱の底まで到達する。ゴトンというその音は、まるで石でも投げ込んだように大仰である。なんだか、買ってきたアボガドよりも、種の方が重かったのではないかといぶかしむほどだ。いや、たぶんそうに違いない。
それならば、なぜその種を植えてみないのか。なにしろ、売っているのは種なのだ。決して果肉ではない。
鉢植え好きなら誰でもそう考えることだろう。
だから、俺も植えたのだ。黒い陶器で出来た丸みを帯びた鉢を選び、あらかじめ大鉢の中に貯めておいた“死者の土”を盛って。
“死者の土”というのは、死んでいった他の植物たちがその根を張っていた土のことだ。俺はその土をひとつにまとめて、たまにまぜかえしたりしているのである。腐った茎や根が混じることで、土が肥えるのではないかと勝手に推測しているのだが、その一方で、何キロもする新しい土を買ってくるのは面倒だとも思っている。それでわざわざ“死者の土”などという名前を付けて自分をごまかしているのだ。
美学とはそんなごまかしのことである。“死者の丘”とか“国家のための死者”とかいった美しげな言葉には、だから注意しなくてはならない。たいていは、何キロもする新しい土を買ってくるのが面倒なだけである。それが国家規模の悲劇なのか、小さなベランダ内でのことなのかには関係がない。人は面倒な時、美学を使う。
何はともあれ、俺は植えた。
そして、ちっとも芽を出さないアボガドに嫌気がさした。
知人に聞いてみたところ、アボガドは土に植えるより、種の両側を楊枝で刺して水を張ったコップか何かの上に引っ掛けておいた方がいいという。
だが、今さらそんなはりつけ獄門みたいなことはしたくなかった。
なにせ、俺のアボガドはすでに“死者の土”の奥で眠っていたのである。そいつを掘り出してはりつけにするなどということは、死者を冒涜するに等しい。だから俺は、また一人死者が出て、土を肥やしているのだとだけ考えることにした。
ところが、知らぬ間に芽が出ていた。
埋葬からほぼ一カ月を経て、種はおそらく根を張り、黒い土と重力をかき分けてその芽を伸ばしたのである。
直径五ミリほどのなかなか立派な芽である。
まっすぐに天を突き刺している。
希薄な緑色に、これまた薄い赤を混ぜたような肌なのは、表面が透明で内部の色素まで見えるからである。これがあの偉丈夫の新しい生の姿なのかといぶかしむほど、それは敏感そうに日を浴びている。
芽は“死者の土”などという美学とはまるで無関係に伸びつつある。発見してわずか三日のうちに、どこからどう発生したものか、三ミリほどの葉の出来かけを胴体の横に付けている。よく見れば、まるで照れた子供が頭に手をやるような形で、先っちょにも小さな二本の腕が出てきている。
あの不条理な重さをすべて土中に隠し、アボガドは軽やかに天に向かう。
なぜ、諸君はアボガドの種を捨てるのか。
やはりアボガドは、種をこそ売っているのだ。果肉などは急いで食ってしまい、すぐにその種を植えよ。
たとえ“死者の土”がなくとも、俺たちはそいつを冷酷にはりつけてやればいい。
●十月のニチニチ草/ペースメーカー・ザ・グレート
花屋では六百円くらいで売ってるし、夏から秋まで長い期間をほとんど店先の棚ざらし状態で過ごしているだけに、こいつは割に軽んじられやすい草花だと言えるだろう。
だが、都会での園芸を愛する人間は絶対にこいつを軽蔑することがない。
毎日のように花開き、散り、また花開いては、散る。地味といえば、地味な風体ながら、こいつと同等の働きをする鉢植えなどまずないのだ。
窓辺やベランダにぽっと色をつけてくれる花が、都会の生活を明るくしてくれることに疑いはないだろう。ところが、花を咲かせる植物というやつは、その青春が短い。
おお、咲いた咲いたなどと喜んでいるのもつかの間、すぐさまどこかがしおれてくる。あわてて肥料でもやり、ショック療法など試みるが、じたばたしても青春は青春だ。お肌の曲がり角はとうてい隠しきれず、早くも植物どもは次なる“壮年の輝く私”に向けて準備に怠りがない。太い幹をさらにでっぷりとさせ、花の周囲を青々とした葉で覆うのだ。
そへいくと、ニチニチ草というやつは偉い。
まず、蕾がつく。そいつがわずか一日くらいで、にゅーっと伸び出してくる。そして開花。しおれるかと思う間もなく、にゅーっと伸び出した細いバトンのような部分が花ごと落ちてしまう。だが、素早いことに隣の茎の先に新たな蕾がついているから、こちらはがっかりすることがない。
まるで複雑なリレー競技のように、あそこの花からここの花、ここの花からそこと、ニチニチ草はバトンをつないでいく。しかも、その小さな大運動会は二カ月くらいの間、飽きるほど続くのである。
ぱっと散る桜の美学と、いつまでも咲き続ける生命力の謳歌。そのふたつを併せ持ったニチニチ草は、その上安いのだ。やつこそまさに、鉢植え中の鉢植えなのである。
日々草と書いてニチニチソウと読ませるあたりが、そもそも憎いといわねばなるまい。俺は最初ヒビソウと読んでいて、鴨川在住自然派作家の村山由佳さんに訂正された。ニチニチだなんて、そんな名前は普通、新聞でもなきゃつけないだろう。そこらあたりの不用意さもまた、俺の頬をゆるませる。
余談だが、あのコメディ界屈指の天才チーム、マルクス兄弟が六十年前にやっていたラジオ番組の台本すべてを訳した時、グルーチョが“ニチニチ草”の名を出すシーンに出くわした。ニセ霊能者になりすまして交霊のふりをしているグルーチョが、あろうことか“おお、来た来た。小さなニチニチ草が別世界から私に話しかけてきておりますぞ”と言うのだ。
原文だと“Ah,I hear the voice of little Periwinkle talking to me from another world”。チコ・マルクスの制止をふりきって交霊に没頭する場面だから、そのチコをニチニチ草の霊扱いしてからかったわけだ。ギャグの流れ的にはアドリブに近い感じがするから、もしかするとグルーチョ自身がニチニチ草を軽く見ていたのかも知れないとも思う。“Periwinkle”が何かの洒落であったとしても、同じことだ。
グルーチョがニチニチ草をあくまでもかわいらしく馬鹿々々しいものとして受け取っていた、と感じるのはひいき目に過ぎるだろうか。だが、少なくともあの植物の長所は、馬鹿々々しいほど強く、しかもかわいらしいところにこそあることは確かだ。なにせ、勝手に運動会を催したら最後、やつらは頼んでもいないのに滅多やたらとバトンを手渡し続けるのである。
我が窓辺でそのバトンの最後の一本がついに落ち、とうとう葉だけが残った時、俺は何度も図鑑に目を落として確かめたはずの知識をまたも確認せざるを得なかった。非情にも印刷されている事実に変化はなかった。ニチニチ草は一年草なのだ。
それでも、俺はそいつを鉢から引っこ抜くわけにいかなかった。緑の葉は日々大きくなり、茎の丈も雑草のように増し続けていたからだ。
そこで、俺は花を終えたニチニチ草を、他の鉢植えのペースメーカーとして使うことにした。ある時は秋の風で冷えていくベランダに置き、またある時は冬の風に立ち向かわせ、あるいは西日のきつくなり始めた窓際へと移動させることで、つまりそれぞれの時期に鉢を置いてはいけない場所を調べようとしたのだ。
すなわち、我が鉢植え軍団が布陣をしくにあたって、ニチニチ草を斥候に出すことにしたのである。なにしろやつは強いから、多少のことではくじけない。しかも、乾くとすぐに葉がしおれ、水やり時を教えてくれる。おかげで、他の鉢たちは万全の戦況で戦うこととなり、適当な時に十分な水を補給してもらうことが出来たのだ。
そうやって、見事な働きぶりで一年を過ごしたニチニチ三等兵は、盛夏の頃を窓辺のきつい西日の中で送った。そして、夏の終わり。なんと、すっかり丈の高くなった茎の先にまたもバトンを持ったのである。俺は涙が出るくらい感動した。
あれほどきつい任務につきながら、貴様はまたも例の運動会を催さんとしているのか! 働くにもほどがあるぞ、ニチニチ! 俺は号泣し、号泣の一方でかたわらのバジルの葉をつんだ。
そして、二カ月。
やつは今、めっきり少なくなったバトンをよろよろと持ち替えつつ、毎日俺を見つめている。やつの言いたいことは、俺が一番よくわかっている。
ニチニチ三等兵は、早くも秋冷えの厳しいベランダに出たいのだ。
そうして、新たに軍勢の加わった鉢たちの先頭に立ち、今年も危ない役をかって出たいのだ。