アロエ/ぼさ菊/(次頁=アボガド/ニチニチ草)
●十月のアロエ/落ちてきたアロエ
ベランダには、ぼさ菊というやつもいる。
Copyright (C) SEIKO ITO , EMPIRE SNAKE BLD,INC. All rights reserved.
アロエを拾ったのである。葉っぱの先っぽを。
それも横断歩道の近くで。
見つけた時はなんとも思わなかった。ただ、一瞬心臓がドキッとして、その後は
ただ当たり前のように拾っていた。ギザギザした緑色の葉は、ちょうど蛸の足の
ようだったから、むしろ周囲の人が驚いたかもしれない。
キャップをまぶかにかぶった男が、横断歩道の前でかがみ、すぐさまその手に緑
の蛸足を持って再び歩き出したのである。
しかも、男はニコニコしている。
ニコニコしながら、ちらちら蛸足に目をやる姿は、まるでキャンディーを持った
子供のような感じである。
しかも、落ちているのを見つけたにしては、あまりに動作が自然で顔もしごく当
たり前みたいな表情である。
信号を待ちながら振ったりしている。すっかり自分の物という感じで、もう見もしない。ただ、指先で感触を試している。
そのまま、男は緑の蛸足とともに車道を渡り、細い道に消えていく。
これはかなり不思議な印象を与える出来事だろう。
だが、男としてはなんだか当然なのである。
鉢植えが好きで、やたらにいろんなものを植えては日がな一日見ていたりする以上、自分の目の前に唐突にアロエが落ちていたら、それは拾うしかない。
なにしろ、他人の家の庭から突き出ているやつさえ切り取りたくなるくらいだから、落ちているのは実にありがたい。
なんの罪も犯さず、植物生活に彩りを加えることが出来るのだ。
家に帰り着いて、急いで適当な鉢を出し、そこに赤玉土でも入れてやればよい。
水はけのいい土に差したアロエは、いわば地球に帰還した後で別荘に落ち着いた宇宙飛行士のようなものだ。ゆっくりと重力を味わいながら、背筋を伸ばし、やがて子供でも作ろうかという気になるだろう。
なにせ、落ちていたのである。
こちらからすれば、空から降ってわいたと考える方が素直である。
誰かが運搬中に落としたにしては出来過ぎている。
こうして、アロエは我が家の窓辺に立っている。
少し水を吸い過ぎて、大気圏突入の際の傷が広がってきているが、それはまあ仕方あるまい。
宇宙を漂い続けて、火星にでも落ちるよりはよほどましだろう。
それにアロエなのだ。
自分の傷くらい自分で治せなくては、その魂が泣くというものだ。
だが、やつは二週間後、地球の環境と自分の治癒能力の至らなさを嘆きながら死んでいった。
●十月のぼさ菊/ぼさ菊の由来
去年の秋、鉢いっぱいに咲く黄色い花にひかれて買ってきたのだ。
花たちは力を合わせて半球状に固まり、弾力のあるアフロヘアみたいな形になって、しばらくベランダを飾っていたものである。
茎自体は十本くらいだろうか。同じ長さの茎から枝が伸び、その先のあちこちに、まさにこぼれんばかりの花をつけてやがる。
こんなかわいらしいものを、誰がぼさ菊などと名づけたのか。
まったくひどいものだと内心やつらに同情していたのを思い出す。
同情しながら俺は丹念に水をやり、液肥やら油かすやらを与え、なるべく長くその美しい黄色の球が輝き続けるよう願った。
なにせ、やつらの身上は、よってたかって咲き、全体の調和をもって人にため息をつかしめるところにあるからだ。
こういう花の美しさは、どこか一角でも崩れると弱い。
虫がついておかしな綿状の巣を作ったり、何かの拍子で一本の茎が枯れたりすれば、そのマスゲーム的な調和はもろくも乱れ、鉢は一気に残骸化してしまうのである。
だからこそ、俺は細心の注意を傾けた。
幸い、ぼさ菊は調子よく育ち、育ちながら咲き続けたものだった。
やがて冬が来て、ぼさ菊は一斉に花を落とし、葉を茶色くしていった。
枝が十分に枯れた頃、俺ははさみを取り出して、すべてを同じ長さに切りそろえた。
それでも、俺は水やりに気をつかい、肥枯れのないよう注意を続けた。
次の年の秋にも、またあの見事な黄色い球を作り、弾力の感覚と重量感で目を楽しませてくれることを心待ちにしたのである。
春が過ぎ、夏が訪れても、ぼさ菊はしぶとく葉を伸ばし続けた。
熱さにまいったのか、茎や葉が茶色の度合いを増し、しだいに灰色化する様相を示しはしたものの、いくつかの死にゆく鉢たちの中、やつは常によく水を飲み、飼い主たる俺を勇気づけた。
そして、風が冷たくなってきた初秋、ついにやつは青葉を茂らせたその先にとんぼの目玉くらいの蕾を付けたのである。気づけば、あちこちに目玉はあった。俺は狂喜したといってもいいくらいに狂喜した。
なにしろ、突然である。
水やりがすっかり惰性化し、表土の渇き具合だけを見るようになっていた時期だから、葉の先など見てもいなかったのである。
それがふと、本当にふと気づいた。
ぼさ菊が今年もあの花を咲かせる準備を整えたのだ!
そして、ほんの三日前、とうとう花がほころび始めたのである。
緑色をした固そうなとんぼの目玉は内部からの力によってふくらみ、開き、今度は小さな小さなとんぼの羽根のような黄色い花弁を一枚づつこの世に解き放ったのだ。
だが、それらが去年のように美しいマスゲームを演じないことは、その時点で明白であった。
俺はやつらを愛するあまり、途中の剪定をいっさい行っていなかったのである。
茎どもはめいめい勝手な方向に伸び、伸びた先で花を咲かせ始めたのだ。
したがって今、ベランダでは俺の愛したぼさ菊の茎が、二年目にして勝ち取った自由主義の世を謳歌しようとしている。枯れたままの根元もあらわに、ただただ花だけを美しく誇らんとしている。
今日も好き勝手に、やつら悪漢はその黄色い花をばさばさと開き続けているのだ。
あれをぼさ菊と名づけた人間の気持ちが、今はよくわかる。心の底から納得出来る。
だが、正確には“二年目ぼさ菊”と名づけるべきだったのだ。