訪れる女神(2/14/01)


   十数年前のことである。
 俺は大好きな島、タイのコサムイにいた。大学時代からの友人で編集者になったNという男とともに、
島暮らしを楽しんでいたのである。まだその頃はコサムイも静かだった。夜になれば海岸は暗く、星がい
くらでもまたたいていて、それは宝石というよりはガラス片か何かのように感じられ、犬にでもくれてや
りたくなるほどだったのを覚えている。
 翌日バンコクに移動するという最後の夜、俺たちはバンガローで下働きをしていたサーンという若者に
声をかけられたのだった。サーンは気のいいやつで、すれ違う度に何か話しかけてくるタイプの人なつっ
こいタイ人だった。
 そのサーンが「俺の家に来い」と言い出した。俺たちは面白そうだなと思ってついて行った。
 家といっても、バンガローの裏手にある従業員宿舎みたいなコンクリ造りの長屋である。入ると中に二、
三人の仲間がいた。で、酒か何かをふるまわれたように思う。
 お互い、片言の英語で話したのだが、内容を覚えていない。その頃の俺は下戸で、酒なんか飲んだらす
っかり赤くなって眠くなってしまう。だから、適当なことを俺は言っていたのではないか。記憶にあるの
はサーンがギターを出してきて、つまびいていたことだ。
 二時間くらいはいたんじゃないかと思うのだが、なんとなくおひらきの雰囲気になった。俺がよほど赤
かった可能性もある。お決まりの「来年も来いよ」「絶対に来る」というやりとりがあって、俺は立ち上
がりかけた。それは鮮明に思い出せる。
 なぜならその瞬間、サーンが部屋にかけてあった仮面に手をかけたからだ。俺はその時点で驚いていた。
仮面好きの俺は、ちらちらとその仮面に目をやっていたからだし、一体なんの面だろうと考え込んだりし
ていたのである。だが、あくまでもサーンに気づかれないようにやっていたはずだったのだ。
 やつは「これは女神、タイの女神だ」と言って、仮面を俺に渡した。
 じっとその面の表情に見入った。ホコリがうっすらたまっていて、小さな鼻の穴にはクモが巣を張って
いた。目玉には緑色のボールペンでグルグルと円が落書きされていた。
 やがて、サーンは恥ずかしそうに「僕が彫ったんだ」と言った。
「本当に?」と俺は声をあげた。
「本当に」とサーンは答えたのだったと思う。
「うまいもんだなあ。すごくきれいな顔をしている」と俺は言った。
 すると、サーンは一言「セイコー、これは僕からのプレゼントだ。受け取ってくれ」と言って微笑んだ
のである。
 サーンがそれをくれることを俺は知っていた。やつが仮面に手をかけた時、すでに俺はそうなると知っ
ていた。だが、なぜかはいまだにわからない。仮面自身が俺の手の中に入るような気配をただよわせた、
というのが一番自然な表現だろう。
 サーンは一度仮面を取り返し、固いベッドの上に落ちていたボロ布で丹念に表面をふいた。たまってい
たホコリやクモの巣が取れて、女神は女神らしくなった。まだ鼻の穴にはいくらか残っていたけれど。
 やつは俺に今度はしっかりと仮面を渡し、そして妙に重々しくこう言った。
「これはいい仮面だ。よくふいてやってくれ。ふけばふくほどよくなる。俺が彫ったんだ」、と。

 以来、このタイの女神は俺の宝物である。
 ほんのときたまサーンの言葉を思い出して、俺は女神の顔をふく。
 今は台所の上の壁に吊るされ、すっかりカマドの神になっているけれど、女神は独特な表情でいつも俺
を守ってくれている。
 それから数年後、Nと俺は『03』という雑誌の取材で再びコサムイに行った。宿泊も同じバンガロー
にした。だが、サーンはもういなかった。すっとぼけている従業員に何度も確認してみると、サーンはア
クシデントで辞めたのだと言った。アクシデントが事故なのか、それとも事件なのかはわからなかった。
 ちなみに、『03』に書いた半ドキュメンタリーの中で、俺はこのサーンという名を別な人物に与えて
いる。今でも、サーンという響きは俺にとってどこか特別なものだ。なにしろやつは俺の仮面好きを見抜
き、大切な女神を手渡してくれた人間だからである。
 確かに、ふけばふくほど女神の顔にはツヤが出る。
 しかし、緑色の落書きはいつまでたっても消えず、サーンの筆圧を伝え続けている。

 



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