DECEMBER
様々なる鉢
●十二月の鉢/永遠の反復(1999,12,31)
植物とともに暮らすことが、まるで息をするくらいに普通のことになってしまった。
それで近頃ではヤゴだのメダカだのタニシだののことばかり書いている。
慣れた植物生活だからもう鉢は増えまい、むしろ勝手に増えるタニシが問題だと思っていたのだが、気がついてみるとこの冬も新顔がいる。新顔といっても、まったく見知らぬ植物ではない。
例えば、俺はまたしても“真綿色した”シクラメンの小さいやつを購入しているのであった。あるいはキキョウ。これは赤い花が咲くらしく、球根状態の現在も目が離せない。目が離せないことでは芍薬の根っこも同様である。
これまで何度も失敗してきたにもかかわらず、やっぱり俺は芍薬のあの枯れ木同然の根に弱い。ボキボキと枝を折られた状態で芍薬は売られている。かろうじて根が生きているのは木の根元からトカゲの爪みたいな形で花芽が出ていることでわかる。
その赤い花芽がゆっくりとふくらむ様子を、俺は息をひそめて見やる。ある程度まで育って時を止めてしまった過去の例がおそろしいから、俺は願いをかけないようにする。がっかりするのがいやさに、感情を抑えて観察するのである。ありがたいことに、今のところ芍薬の花芽は順調に、スローモーションでふくらみ続けている。咲くかどうかはわからない。わからないが、咲く可能性は続いている。
一方で匂い桜も買い足してある。何日か淡いピンクの花を咲かせて、現在は葉の時代に突入しようとしている。果たして来年咲かせられるかどうかがポイントなのだが、俺はすでに半ばあきらめている。なぜとは言えない。咲き終えたばかりの匂い桜の様子を見ているだけで、ああ次は無理だろうなと思うのである。葉の系統で判断しているのか、そいつの個人的な元気さでそう考えるのか、もはやよくわからない。
匂い桜の横にあるのは福寿草だ。こいつの花はフキノトウみたいな具合の濃い緑に包まれて、ぐんぐんと質量を増しながらほぐれつつある。水やりさえ間違えなければ必ず咲くだろう。日々大きさを増す植物は、たいていそのまま花まで到達する。情報の展開速度が速いということは、生命力の強さに比例するからだ。たとえ、花ののちの長い沈黙を経ても、こうした植物はやがて一気呵成に育ち、花を咲かせる。
匂い桜だって花までの速度は相当なものなのである。だが、福寿草のそれとは本質的に異なっている。匂い桜においては、花のみが素早く情報展開するからだ。福寿草は違う。ガクの部分を含めて、おそらくは根の部分までを含み込んで花を咲かせてゆくのである。変容の全体性が特徴だといってもいい。
そういった全体的な変容を可能にする植物は放っておいても咲く。都会のベランダで何年も生き抜くだろうと感じさせる植物には、必ずその特徴がある。だから、逆に匂い桜を見て俺は“ああ、今年限りだな”と感じてしまうのだ。
花に至るまでの全体的な変容。メタモルフォーゼの急速度。それがつまり、都会で暮らすことの必須条件なのだと植物は俺に教えてくれる。花というわかりやすい外面だけではなく、内的にも日々変わり続けること。どのような条件下においてもそれに対応し、しかしながら結局のところ最初から決まった形の花を咲かせてみせること。
鉢を次々に買い足しながらも、俺はその植物独自の強さを見たいのだなと感じる。化ける力。毎日が昨日と違うこと。自分を繰り返さぬこと。だが、一年を経てまたその差異を保ち、繰り返すこと。
俺は植物から啓示を受けたような気分になる。そして、その気分がいまや日常的であることに少し驚く。都会で植物と暮らすことは、つまりその啓示を日々感じ取ることに他ならないのだ。
繰り返しながら、繰り返さぬこと。
植物はそんな見事な矛盾を生きているのである。
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