DECEMBER

花束

●十月の花束/花瓶としての鉢(1999,10,24)

 つい先日、エッセイ賞というものの授賞式に出席したのである。もらったのは俺だ。しかも、受賞の対象はこの『ボタニカルライフ』の単行本版である。いやはや目出度いことだ。
 パーティの様子はともかくとして、俺はその日お祝いの花束を方々からいただいたのであった。近頃は鉢植えをプレゼントするケースも少なくないのだが、さすがにベランダーの俺に鉢を与えるにはかなりの熟考を必要とする。あとであれこれと悪口を書かれるのも嫌だろう。それでみんな、花束でおさめてくれたらしい。
 家に戻りついて、すぐに花瓶におさめた。持っている花瓶を総動員しても追いつかない ほどであった。こういう時、金魚鉢を利用してもいいのではないかと考えがちな癖が俺にはある。メダカが泳いでいるにもかかわらず、なぜかそこに花を差し入れたくなるのだ。
 たぶん、このへんに”元は水草が欲しかっただけ”という水生生物事情がある。俺は無意識にそれを覚えていて、というかかなりこだわっていて、メダカごときに水と鉢を与えているくらいならなぜ草花にもやらないのかと思うのだ。
 なにしろ、すでにあちこちの部屋には水をたっぷり注いだ花瓶が立っているのである。地震でもあれば、火事の応急処置には事欠かないのではないかと思われる量である。それ以上増やせば逆に水害も考えられるほどだ。いっそのこと金魚鉢を利用出来れば、湿気の増大を少し抑えられるのではないかと思いついても仕方がない。
 しかし、俺はかろうじてその欲望を具現化せずにすんだ。なぜなら、今年の中盤あたりに素晴らしい花束対策を開発済みだったからである。
 死者の土が盛ってある大きな鉢がベランダにはある。その土の中に俺はグサグサと花を差してしまうのである。生け花とはこういうことをこそ言うのではないかと俺は思う。なにしろ、花は元いた土に帰るのだ。そこから水分だの栄養だの細菌だの夜盗虫による被害だのを得ることが出来る。そしてもちろん、うまくいけば根を張って再生することが可能なのだ。花を生かすには絶好のアイデアである。
 他の仕事で花をもらったりすれば、俺はすかさず束をほぐし、特に根のつきそうなやつを選んで土に差す。巨大な鉢はいきなりの花盛りとなり、洒落たガーデナー諸君さえ羨望のまなざしで見るであろうような寄せ植えが出来上がる。何がいいといって、いかにも自分が育てたような錯覚が起きるのがいい。だから、なるべく無造作に差して記憶に残らないよう努力し、翌朝知らぬふりでベランダに出るのが俺の楽しみになる。
「あ、咲いた」
 そういう嘘を自分に容認し、俺は濡れ手に粟の寄せ植えに驚いてみせるのである。咲いたのは嘘にしても、咲いているうちに根を張るお調子者がいるのではないかという期待には胸踊らせるものがある。
 まさか根が付くわけがないというものをわざと差すのもいい。そういうタイプの花は、つまり実際に育てるのも難しそうなわけで、 一生涯ベランダで咲くはずがないのである。そういう気難しいやつが華々しく存在しているベランダを見るのは実に気分がいい。
 気のせいかも知れないのだが、この方法を用いると花が長持ちする。枯れかけても自然の摂理を思わせるから、がっかりしない。じゃあまた来年会おうという前向きな気持ちで見送ることが出来るのである。つまり、花束をもらった数日後のあの寂しさが見事に消えるのだ。
 残念ながら、今のところ首尾よく根付いた花は一本もない。だが、俺は決して落胆することがない。どうせもともと枯れる花なのだ。万が一、中から我がベランダチームに参加したいという奇特なやつが出れば、そっちの方が奇跡なのである。いい加減な水やりで毎日ひどい扱いを受け、肥切れで食うや食わずの苦労をし、咲くものも咲かなくしてしまうような悪漢の手で育ちたいなどという変わり者がもしも現れたなら、俺はそれだけで卒倒するくらい喜ぶだろう。
   是非みなさんにもお勧めしたい。花をもらったら即ベランダへ送れ。あり得ないくらい見事に整って咲いた花をあたかも自分一人が育てたような気になって、そして誓うのだ。
 一生にたった一度でいい。いつか必ず、こんな風に何かを育ててみせるのだ、と。

    

 

                   



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