JUNE

クローンコエ

●六月の奇種/新しもの好き(1999,6,20)

 ここ一、二カ月、植物について書く欲望が失せていた。実際の鉢どもの世話をしていなかったわけではない。いつも通りに十分な注意を向けていたのである。
 カクテルが今年二回目の花を早くもつけ、イタリア豆の実は収穫間近ながら葉を弱らせており、メダカは相変わらず生まれては死んでいく。そういうささいなことに集中力を分配していると、やがて目が遠くを見るようになってくる。
 ベランダに出ても、腰をおろしてひとつの植物を丹念に見るということがなくなる。全体をいっぺんに把握して、「いかん、春菜とルッコラに虫がついた」とか「放っておいたウコンがまた球根から葉を伸ばし始めた様子だ」といった状況判断を同時にこなしてしまう。意識などおぼろげなまま、各事態に対処しているうちにベランダは元の平静さを取り戻しており、俺は依然遠目のまま窓を閉めるのだ。
 だが、そんな慣れがベランダーの楽しみだろうか。つまり、俺はそういう根本的な迷いに陥っていたのである。
 数年前まではしょっちゅう枯らした。枯らすがゆえに次の生命体を導入し、そいつに全神経を傾けた。傾けすぎるからまた根腐れなどを招来し、がっくりと肩を落とすはめになった。パニックの連続である。
 ところが、今年になって突然、めったなことで枯らさなくなった。数ヶ月前、オレガノが原因不明で急死して以来、俺はなんの被害も出していないのである。
 普通に考えれば、非常にいいことである。だが、こうなると、やってる方はどうも退屈になってくる。枯れることに慣れてしまった体ゆえに、枯れないことが時間の停止にさえ思われてくる。知らぬうちに、先に書いた春菜とルッコラを根元から刈っている自分がいる。丁寧に薬かなんかをかけて復活させればいいものを、わざと大手術などして自ら緊急事態を作っているのである。
 こういうことを文化の退廃という。植物は日々微細な変化を遂げているのである。にもかかわらず、強盗だとか殺人だとかがないと一日に変化がないような気になってくる。しまいにはハルマゲドンでもないかと空を見上げる始末だ。
 これはまずいと思いながらも、俺は退廃から逃れられずにいた。劇的な変化を無意識に希求しつつ、その退廃に耐え、必死の思いで小さな植え替えを行い、場所替えを続けた。花を咲かせたヒマワリにも感動出来ず、珍しく調子のいいアイビーを壁につたわせる作業もどこか機械的だった。
 そこに近所から朗報が届いたのである。
 クローンコエという謎の植物があるから取りに来いというのであった。しかも、先輩ベランダーは「そろそろ書くことがないんじゃないのかい? こいつは面白いよ」とこちらを見透かすようなことを電話口で言う。確かに俺は目の覚めるような植物に飢えていた。
 さっそくタクシーで出かけてみると、そいつはベンケイソウ科の植物なのであった。多肉植物特有の、まあ言ってみればアロエを薄くしたような葉を持っている。土にささったポップには「ふえふえカランコエ」などと書いてあり、ますます不気味である。
「ここ、ここ。ほら、見てごらんよ」
 先輩に言われて見てみると、葉がのこぎりみたいになっている。のこぎりの歯の部分は葉っぱがほんのかすか下側によじれていて、 そのよじれが点々と葉の両側に続いているのである。
 さらによく見ると、そのよじれの一部に間借りした植物みたいなものが付いているのがわかった。二、三枚の丸い葉はまさに多肉植物の子供である。その子供のうちの幾つかはすでに白い根をはやしていた。
「これがポロポロ落ちてさ、すぐに根が付いちゃうんだよ」
 先輩はそう言い、 「なにしろ、クローンコエだから」  と続けてから笑った。
 つまり、おそろしいことに葉の両側にびっしりと次々にクローンが出来、そいつがひっきりなしに落ちて増えるのである。なんだかわからないが、奇妙といえばあまりに奇妙な植物だ。
「これは……地獄だ」
 俺は目を見張って言った。これまでも俺は鉢を置く場所の確保に汲々としていたのであった。そこにあえて先輩は「ふえふえカランコエ」を投入してきたのである。すでに鉢の表面のあちこちには増殖したクローンたちがいた。クローンとはいえ、親木よりも丸い葉を元気よく突き出して、あたかも雀の子がエサをねだるような調子でこちらを見ている。
 挑戦であった。クローンコエは増えに増える。そいつを止めることは出来ない。つまり毎日が不動産問題との格闘なのである。
 その、日々続く素早い変化は、すなわちベランダ全体に起きることと同じであった。単にクローンコエは変化それ自体をわかりやすく象徴しているに過ぎないのである。
 ふむ……と俺は今もクローンコエの葉に付いたクローンたちを見て考えている。変化の速度を増すことによって、俺は忘れかけていた生命の神秘と、その神秘によって起こる不動産問題の喜ばしい面倒くささを痛感することが出来るのだ。
 クローンコエに起こることが日々ベランダで起きている。そいつを俺はもう一度新鮮に感じ取らなければならない。アンスリウムも次々に花を咲かせている。ふた鉢に分けたモミジも毎日背丈を伸ばしている。死ぬ卵を生み続けるメダカたちは今日もエサに食らいつく。死にかけたシャクナゲが古い葉を一枚ずつ落とし、透き通った緑の葉を生やす。
 この成長、この増殖に対抗するにはアイデアしかない。俺はおそらくアイデアに行き詰まっており、置く鉢の数を限定して退屈していたのだ。
 文化の退廃とは確かにアイデアの行き詰まりのことでもあった。アイデアの枯渇を棚にあげて状況に満足した時、変化は見えなくなる。
 俺はこれからピンで壁に吊れる小さな鉢を探しに行こうと思う。まだまだ俺の不動産には植物を置くスペースがある。壁を使えば水やりの少なくてすむ植物はガンガン置けるのだ。
 クローンコエが増える速度以上に俺は頭脳を駆使し、アイデアを生み出し続けてみせる。 それがボタニカルライフのもうひとつの魅力であったことを俺は再認識したのである。
 

                   


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