●十一月のメダカ/学校(1998,11,26)
生き残ったメダカはわずか一匹になっていたのであった。
夏。わずか一週間ほどの間に二匹が死んでしまったのである。
生き残ったやつはわりにのんびりと泳ぎ回り、生存競争に勝利したプライドをこちらにみせつけていた。なにしろ、金魚鉢にたった一匹である。テリトリー争いのストレスもなく、エサが与えられればあるだけ食っていい。
飼い主の俺としても、金魚鉢にメダカ一匹というその状況にすぐ慣れた。もう誰が誰だか迷うこともなくなったし、ゆうゆうと尾ビレを動かす生き残りの様子が王様のように優雅にも見えたからだった。
それが今月の初め、ひょんなところで出くわした御近所ベランダーから”確かメダカを飼ってましたよね”と聞かれることとなった。
むろん正直に状況を話す。すると御近所ベランダーはなぜかうれしそうなのである。全滅に近いあり様だと聞いてうれしそうなのは妙だと思っていると、彼は実は……と話し始めた。
その人もまたメダカを飼っていたのであった。それがこの夏卵を生み、しかもほとんどが孵ってしまったのだという。だから、と御近所ベランダーは続けた。もらい手が必要なんです。なんでもベランダに置いたバケツいっぱいにメダカがおり、ふと見ると真っ黒だったりするらしかった。黒いのは目なんですと御近所ベランダーは言ったものだ。小さなメダカの子の目がバケツを黒く染めるとは、なんというおそろしい事態であることか。
俺は当然ながら、いただきましょうと答えた。生き残った一匹が寂しいだろうからとか、そういう人間主義的なことで引き受けたのではない。俺の頭にはバケツ一面に目玉を寄せているメダカの子たちが浮かんでいた。いくらなんでもそんなおそろしい光景は一刻も早く消してしまわなければならなかった。なんというか、悪霊退散にひと役買いたいといった心持ちである。それはさぞ大変でしょうとポルターガイストが起こる家の人に同情するみたいにして、俺は数日後ガラスのコップを持って家を出た。
お招きにあずかった家にはかわいい猫がいた。だが、メダカを襲う様子はみじんもない。さすがにバケツ一面真っ黒のパワーはすごいのである。どれほどのおそろしさだろうと俺ものぞき込んでみた。だが、すでにだいぶ配り歩いたとみえてさすがに真っ黒ではなかった。なかったがうじゃうじゃいることは確かだった。藻に卵がついているのを発見してバケツに入れておいたらこのあり様だ、と御近所ベランダーは笑った。笑ってから、何匹くらい……と尋ねてきた。五匹と答えたかったが、六、七匹と声が先に出た。メダカのオーナーのすがるような目が厳しかったからである。
結局コップには八匹のメダカがいた。揺らさないように注意して歩いて帰り、すぐに金魚鉢に入れてみた。不思議なほど大きさがまちまちであった。孵化した日のささいな違いで、幼稚園児みたいなやつから中学生みたいなやつまでいる。もちろん一番大きいのはもとからいた一匹で、それが大親分に見えた。一番小さいやつはほとんど精子じゃないかと思うくらいで、思わず”ツブ”と呼びかけてしまうほどだった。ツブは金魚鉢の汚れと見間違うくらい小さいので、大親分は完全にエサだと思って口を開けたりする。俺はがぜん心配になってきた。
知らない間にツブが食われたらどうしよう。そう思ってみていると新参者同士の勢力争いまで起こり始めた。オヤビン(大親分のあだ名である)も巻き込まれて、なんだかあちこち忙しく泳ぎ回って威嚇などする。さっきまで五匹で十分と思っていたのに、もう俺は八匹全員の身が気になった。いや、オヤビンのストレスもかんがみれば九匹である。
通常ペット屋で買うやつは大きさが揃っている。揃っているからか、わりとなごやかに群れ、おんなじ方向に頭を並べて行動する。川などの映像でもメダカはそんなものである。だからこそメダカの学校と歌われてしまう。ところが、こちらの学校はてんやわんやである。いっこうに群れることがないどころか、全員ばらばらに上へ下へと移動する。おかげでシーモンキーを飼っているような気になるほどで、つまりまったく統一感がない。学級崩壊というやつだ。
しかも、この崩壊した学級には小学一年生から大人までいるのである。大人の再入学生たるオヤビンは中学生を追う。追うが小学生みたいなやつに反撃されたりもする。その間、精子状のツブはおかまいなしにふわふわやっている。デタラメである。カオスそのものといっていい。
仕方ないので以前金魚どもが生きていたときに使っていた大きめの水槽を出してきた。迷いに迷ったがそこに八匹を入れた。オヤビンだけを元の金魚鉢に戻す。つまり相対的にはオヤビンは不遇の身となったわけである。小さなガキどもの方が部屋がでかいのだ。しかもオヤビンは場所を移され、より日光のあたるスペースを新入生どもに譲らねばならなくなったのである。
以来、オヤビンは冬眠するかのように静かになってしまっている。一方、大きめの水槽では崩壊学級の子供たちが今日もばらばらに動き回っている。
メダカライフもようやく落ち着いたと思っていた矢先、こうして俺は新たな魚生活に踏み出してしまった。八匹はそれぞれ勝手に育ち、いずれ繁殖期に入るだろう。次にバケツを真っ黒にするのは俺なのだと思うと、今からおそろしい気持ちになる。
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