(1998,7,16)
猛烈な暑さが続き、早くも梅雨明けかと思われた初旬。しかし一転梅雨空が戻り、昨日の夜などは秋のように冷えた。エルニーニョなどという半ばトッポジージョにも似た名前をようやく覚えたと思ったら、今度はラニーニャだそうだ。なんというか、口の中で転がすとネバネバしそうな気がする。少しチーズの味がする。
さて、一般に、ベランダーにとって梅雨は気楽な季節だと思われている。なにしろ水をやらなくとも雨が降る。しかも直射日光をさえぎったりする手間もいらない。
だが、もちろん梅雨は俺たちにとって鬼門である。ベランダに雨が降り込むとは限らないから、油断すると表土がからからに乾いてしまう。かといって少しでも多めに水をやったら最後、湿気によって根腐れが起こる。
一番困るのは虫だ。この時期、ちょっと目を離すと植物どものあちらこちらに虫がつく。俺が嫌いなのは、あのショウジョウバエみたいな小さな黒い野郎である。なんという虫かは知らない。そう言うと馬鹿にしたような顔になって、あれはカキガラ虫ですよとか、あいつはモンドウオオガラスですなどと鼻を高くするやつがいるが、ああいう輩もどうしたものか。俺は別段、虫を飼っているわけではないのである。鉢の世話をしているのだ。虫の名前など知ってどうなるものでもなかろう。おお、カキガラ虫よなどと話しかければいなくなるというわけでもない。ラニーニャと呼んだところで陽気が変わらないのと一緒だ。
知っていようがいまいが、やつらはいっこうおかまいなしで土の表面からブワッと飛び立つ。そういう時、土は必ず湿っている。ほとんど腐りかけた水を養分として、やつらは育つのだ。そもそもどこに卵があったのかが謎である。買ってきた土自体に卵がたっぷりと入っていたと考える他ないのだが、こっちは虫入りなど金輪際頼んでいない。勝手に混じり込んでついてくる。ひょっとしたら根腐れ予防の警報みたいなことになっているのかもしれない。危なくなったら、何はともあれまず虫がわくような仕掛けになっているのだ。
その警報たる虫どもは妙に体が固い。小さいくせに、手の甲や顔に当たると意外な痛みを感ずる。いや、まあ印象である。実際それほどの衝撃があるとも思われないのだが、大群を見つけた時の恐怖がなぜか俺にそう記憶させてしまう。ショウジョウバエならもう少しお手やわらかである。やつらの方は凶暴で、カチンと当たってくる……気がする。だから、頭の中もカチンとくる。体積に対しての重さが問題なのか、俺はあのカチンと当たられるのにめっぽう弱い。例は反対だが、持ってみたら予想外に軽かったスイカみたいなもので、自分の予測を裏切られたことに無性に腹が立つ。だから、ほとんどいきり立つようにして殺虫剤を手にすることになる。いらだっているから、もう茎も折れよとばかりに薬を噴射する。噴射してもやつらはフワフワと飛んでにやにやしている。いや、にやにやしているかどうかは知らない。知らないが、俺にはそうとしか思えない。
はっとして噴射をやめる。長い時間噴射していると冷たさで植物がやられてしまう。じっと我慢して虫どもの動向を探る。土くれの小さな陰からもぞもぞと出てくる間抜けがいる。あいつをどうにかしなければと思うと忍耐がしきれず、また噴射を始めてしまう。
こういう調子で植物はだいぶ傷つく。二日もすると葉は黄色くなって落ちるし、根の調子も悪そうになる。虫はといえば、水やりを控えた元の鉢から隣に移動していつの間にか増えている。そのまま噴射範囲を広げれば、俺のベランダ生活は危機に瀕する。必死に歯を食いしばって散水を控え、とにもかくにも虫どもの温床を消滅させんとはかる。だが、悪いことに世間は梅雨である。そういう時に限って湿気はなかなか去らない。去らないからあの、もういい、ここはラニーニャと呼ぶことにしよう、ラニーニャどもはいい調子であちこち飛び回り、俺の手や顔に当たる。
こうして、毎年毎年梅雨の季節になると俺はラニーニャどもと戦うはめになる。部屋に入ってきたラニーニャが知らぬ間に冷たい麦茶の上で泳いでいたりする。朝起きるとラニーニャが枕にへばりついていたこともある。煙草を吸えばラニーニャが迷惑そうに飛び立つし、干している途中の洗濯物にしがみついて水分を補給したりする。しまいには水を欲しがって水道のそばにいたりするから、俺は猫でも飼ってるのかという気にさせられる。
こういういちいちの所業に腹を立てているうち、ラニーニャは忽然と消える。晴れてこちらは葉の根元に白い粉をふく虫だの、サビ病と戦うことになる。それらも梅雨に多く発生する虫や病である。だがもちろん、消えたラニーニャはすでにそこら中に卵を産みつけているのである。去ったかに見せかけて、やつらは次の湿り気を虎視眈々と待っているのだ。少しでも湿れば、その時とばかりにラニーニャ軍団は出動する。黄色いカナリア軍団も恐いが、この軍団も相当なものである。シュートはしないが当たりは強い。退場の心配など毛頭なく、ひたすらにぶんぶん飛び回る。
梅雨はだから面倒である。確かにすくすくと植物は伸びる。だが、他の生命もぶくぶくとわいてくる。一瞬の隙でやつらは植物の茎にたかり、土をくらい、花びらの裏にひっついて我が世の春を謳歌しようとする。
そして俺は神経質に殺虫剤を持ち、毎日ベランダを監視する。同じ生命をなぜ選別するのかという問いには答えられないまま、俺の戦いは一進一退を続ける。
やつらだけは許せない。やつらは俺に当たってくるからだ。
●七月のベランダー思想/ロケットの行方(1998,7,19)
おとといだったか、友人のみうらじゅんという男が家に来た。新宿の居酒屋で飲んでいたら、急にいとうさんの家に行くと言い出したのである。タクシーを飛ばして長旅を決行し、家について茶をふるまっている間、いとうさんちは仮面飾り過ぎだとか、この部屋は東南アジアの香りがするとかうるさい。
笑って聞き流していると突然思い出したように、ガーデニングはどれよ?と言い始めた。文法が乱れている上に顔が赤い。俺のはベランディングだと注釈をつけるのも面倒だから黙って立ち上がり、そのへんの鉢植えを指さしながらベランダまで歩いた。お、室内からもう始まってんの、などと驚いてみせながらみうらさんもちどり足でついてきた。
実はベランダはすでに家に着きしな、見ているのである。見ていたのだが、まさかそれが”ガーデニング”だと思っていなかったらしい。みうらさんはなんだかがっかりしたような、拍子抜けしたような調子で並んだ鉢植えを見やる。そもそも興味がないことをうっかり聞いてしまったこともあるが、それより何より彼としてはイメージが大きくずれてしまって困ってしまったのである。
たぶん、ブロックをオシャレに積んだり、素敵な大鉢から花が咲きこぼれていたりしないことに肩すかしをくらったのだった。外に出てぶらぶら歩き、バーに入って飲み直し始めながら、俺はガーデニング幻想が意外に根強いことについて考えていた。その間もみうらさんは関係のないことをしゃべり続けている。どういう内容かというと、俺を主役にした映画の構想だそうだ。冒頭、クレーンで浅草寺をなめると境内に俺がいるらしい。いきなりケーナ(演奏田中健)で寅さんのテーマが流れ、スクリーンにでかい文字が出る。人情の二文字。みうらさんはあたりかまわず大声を出して興奮している。そこでいとうさんの部屋に灯りがともるんだよ、シュノーケルカメラがグワーッと入っていく、部屋には仮面がたくさんある! ようするにさっき自分が体験したことに過ぎない。子供が見る夢みたいなものだ。
俺の方はなおもガーデニングについて考えていたのだった。植物を育てているというと、人はもはや必ずブロックや素焼きの洒落た大鉢を思い出してしまうのである。まさかプラスチックの鉢だの薄汚れた鶏糞の袋だのが転がっているとは思わない。いや、ベランディングが洒落ていてもいいのだ。素敵なベランダを作るべく努力を重ねることに文句はない。それも同志であるし、俺も出来ればそうしてみたいとも思う。
だが、狭い空間にどれだけ多くの鉢を詰め込むかという問題が立ちふさがっている以上、俺はどうしても洒落たベランダ作りに傾けない。数で勝負のそのベランディングが、しかしガーデニングに対抗出来るだけの美の秩序を生み出せなければ、俺はただ漫然と鉢を買っているだけの趣味人になってしまう。そこが大きな課題なのだと思った。例の、道にトロ箱出してるばばあと沈黙のうちに共闘関係を結びながら、そのアナーキーぶりをゆるやかな秩序として形にしなければならない。
それがガーデニング思想に見られる十八世紀啓蒙主義的な、つまり植物学に根ざした美でもなく、十九世紀ロマン主義的な西洋散歩思想を前提とする美でもない何かにすること。つまり、何かあるとすぐに美学と言いたがる弱々しい日本の馬鹿どもをよせつけない思想的核心を俺たちベランダーは持つ必要があるのではないか。俺はそう考えたのである。
知らないうちに俺を主役とする映画はSFになっていた。俺の体は、みうらじゅんいわく”グニョーンと伸びて”下町から宇宙へと飛び出していた。飛び出したのはいいが、またケーナの演奏が流れて人情の二文字が出てくるらしい。ほとんど実験映画である(special gallerly)。しかし、酔っぱらった友人が口から泡を飛ばしてしゃべるそのラストシーンのわけのわからなさにこそ、俺の求めている何かの核心があった。
俺たちのベランダはロケット基地である。いや、鉢の土それ自体が小さな基地である。道ばたのトロ箱も、玄関に釣ったパンジーの鉢も、おやじがステテコで水をまいている屋上も同じだ。その基地で俺たちはオンボロのロケットを育てているのではないか。なにせオンボロだから、宇宙論を植物のマンダラ的な配置で示すなどという金のかかる偉業とは関係がない。時にはペンペン草である。時には他人の軒下から拾ってきた朝顔の種である。あるいは買ってきた鉢についてきた種類のわからない花である。
それらオンボロロケットに俺たちは給油をする。整備をし、時を待ち、次から次へと空へ放そうとする。発射失敗を重ねながら、基地のロケットたちは花開き、丈を高くする。アメリカの砂漠からロケットが飛ぶように、俺たちの基地もまた乾いた砂と枯れ落ちた葉に満ちている。サソリのかわりに油虫が這っているだろう。粗野でのっぺりした風景の中に突っ立つロケットたち。だが、やつらは確実に下から上へと伸び上がる。伸び上がって風に吹かれ、空の向こうを見ている。
友人をタクシーに乗せてからゆっくりと歩き、二十世紀も終わりのベランダに一人で帰りついて、俺はようやくベランダーの美を見つけたような気になる。友人が何度もやってみせてくれたように、植物たちは”グニョーン”と首を伸ばし、今飛び立つ前だと言わないばかりに闇の中で揺れていたからだ。
俺たちのベランダを荒涼とした平野にせよ。
そこに今すぐ、オンボロなロケットを配置せよ。
何基も何基も、あるいはひとつ。
雑然としたロケットの位置は、太陽に決めさせよう。
宇宙のすべてを知ることなど出来ないのだから無言のままでいて、しかし緑色のロケットの胴体がつながる成層圏の彼方のことを時には考えていよう。
宇宙に届こうとするそのロケットどもを見守って、限りのある俺たちは砂の舞う狭い土地の脇に立っていよう。
それが俺たちのベランディングだ。
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