(1998,6,24)
六月の初め、去年とまったく同じように芍薬の株から芽が出たのである。古木めいたその株は一年の時を経て、新しい生命を現出させたのだ。
一方は株の横から緑濃い葉を遠慮がちに伸ばし、一方は土の中からツクシのように顔をのぞかせたまま内部に葉を隠し持つ芽。
だが、俺は喜ぶことをしなかった。いや、出来なかったというべきだろう。なぜなら、そのふたつの春らしい現象はほぼ一ミリの違いもなく、前年の反復だったからである。
去年、俺は芍薬の発芽を祝福し、鉢を特等席に移して丁寧に水やりをした。ところが、葉は短く伸びたままそれきり広がらず、ツクシ状になった方も中に包み込んだ葉を噴き出させることがなかったのである。さあこれからという姿でありながら芍薬はぴたりと成長をやめ、そこまでが決められた範囲であるといわんばかりに凍りついたままだったのだ。
そして、今年もまったく同じであった。同じふたつの場所からふたつの芽が出、ビデオでも見ているのかと思うほど同じ形になって時を止めた。
そのまま枯れてゆく経過にも違いはなかった。まずツクシ状の方がマッチ棒の頭のようにみるみる黒ずんでいき、葉を伸ばしかけた方が後を追う形でゆっくりと枯れてゆく。
何年経ってもそうなるものはそうなるという悲しい真理をベランダーは知っている。ある年に失敗をすると、ほとんど必ず失敗は反復される。土に肥料を混ぜ込んだり、置き場所を変えてやっても、最初の年の失敗は次の年に帰ってくる。だから、ベランダーは最初の年の失敗を避けるべく、細心の注意をはらって鉢の面倒を見る。だが、起きてしまった失敗は取り戻しようがない。そして繰り返される。
芍薬はいわばその失敗の完全なるモデルケースである。何が悪いのかはわからない。わからないが、成長の中断は決められている。途中まで成長することもまた決められている。つまりはこちらの落胆も決められているのだ。
おそらく、これから何かの鉢を育てそこなうたびに俺はこの芍薬の株のことを思い出すだろう。俺たちベランダーに時を支配する力がないように植物も毎年同じように時を止められ、透明な時の壁にはばまれたまま葉を伸ばしきれずに枯れてゆくのである。
●六月のおじぎ草/雑草の価値(1998,6,25)
仕事で福岡に行き、洒落たデパートの中の園芸コーナーでおじぎ草を見つけたのであった。スペイン風の鉢に入ってちょうど千円。何度か葉を触り、恥ずかしそうなあのしおれ具合を見ながら俺はそいつを買うかどうか迷っていた。
なにしろ相手はいわゆる雑草である。そのへんの野原に行けばいくらでも手に入るじゃないか。当然そういう理性が働くのだが、一方で”そのへん”とはどこだという内面の声もする。言われてみれば、とまあ自分で言って自分でやりこめられているわけだが、確かにおじぎ草の生えているような野原というものにあてはなかった。
いや、そういうことじゃなくて俺の言いたいのはだな、と再び財布の紐をしめる俺がいた。自分で探す苦労を放棄して、ただ漫然と千円を払うことが正しいのかということだ。そういうことだからカブト虫だの鈴虫だのが高くなるんだよ、とそいつは激しく主張していた。おかげで聞き手の俺はおじぎ草のすべての葉を触り終えており、つまり草のやつは平身低頭というかすっかりしゅんとしてしまっている。
雑草まで資本主義の輪廻の中に閉じ込めて、
レートの明確でない価値をつけるというのは、なんというか倫理的ではない、と激しい俺はたたみかけてきた。なんでもかんでも売り買いの対象にするのは、お前、ベランダーとしてどうなんだとアイデンティティの問題にまで踏み込んでくる。聞き手の俺までしおれそうなのでいったん園芸コーナーを離れ、横のペットコーナーでクラゲなどを見た。フェレットを見、ハムスター数種類を見ているうちに俺の頭は俺への反論に満ちてきた。
そこで、俺(B)は俺(A)にこんなことを話しかけながらおじぎ草の方へ戻った。”なんでもかんでも売り買いの対象にするのがいかん”と言う気持ちもわかる、わかるが反対におじぎ草に値段がないのが当たり前で君子蘭ならあっていいというその考え方だっておかしいのではないか。
俺(B)はさっきのおじぎ草の葉がちっとも回復していないのにがっかりしながら、さらに俺(A)への反論を続けてみた。おじぎ草に値段をつけることへの心理的抵抗の核心は、そこらへんの野原から自分で抜いてこられると思っていることから来ている。だが、野原に伸びているそいつは果たして本来的にタダなのか。もしも君子蘭ならいいというのであれば、ひとえにその栽培に人の手がかかっていると想像するからであり、つまり価値の大半はその労働から生じているのである。
となれば、俺(A)よ、おじぎ草を買うことへの抵抗は労働抜きの価値への抵抗に過ぎない。すなわち、お前はけっしてそれを植物主義的に否定しているわけではないのだ。あくまで労働価値の問題の回りで腹を立ててみせているのである。しかも、このおじぎ草だって誰かが金になると踏んで育てたに決まっているではないか。その商売に乗るのは確かに悔しい。だがしかし、どんな鉢だって根本的にはそういう商売の上で成り立っているのではなかったのか。
ここにきて俺(A)は俺(B)に統合された。
説得されてそうしたというよりは、共同してそこらへんの問題を考えることにしたのである。例えば、おじぎ草をタダであると認識してしまう俺たちは、雑草なら勝手に持ってきていいという前提に立っている。そもそもそれが身勝手な話であった。植物にも権利があるなどと主張したいのではない。逆に、誰かが栽培している植物は勝手に持ってきてはいけないという禁止条項があるからこそ、誰の手にもかからぬような雑草の抜き取りに俺たちは無頓着なのではないかと考えたのである。すなわち、人間が人間同士で決めた資本主義的な権利ルールがあればこそ、反対に雑草の無価値性が成立しているのではないかという疑いである。
そんなことをじっと考え続けている俺の指先には、おじぎ草の葉があった。知らぬ間に俺はそいつを触りまくっていたのである。葉は閉じているどころか、もう脂ぎっているようにさえ見えた。園芸コーナーの女子店員の目も厳しく光っている。異常な男がぶつくさ言っているのを警戒しているのだ。俺はあわててもう一度、俺の中の”財布の紐派”に購入許可を要請した。手のかかった鉢を買うつもりで買うならよいと、そいつ、つまり例の俺(A)は言っていた。
こうして飛行機に乗ってその雑草は俺の家にやってきた。数日後、土や肥料を安く売っている近所のスーパーに出かけると、まったく同じ大きさのおじぎ草が百八十円で売られていた。いくら鉢を買うつもりで買ったとはいいながら、俺(B)はひどく傷つけられたような気がした。
その瞬間、あの論争の価値もまた一挙に下落したように思ったからである。
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