(1998,3,22)
贈られた植物については前回書いた。知らぬ間に俺のボタニカルライフに参加した植物について、である。
その二週間ほどあと、俺のベランダに、いや正確には窓際の特等席に新たな贈り物が置かれることとなった。それが高さ五センチ弱のモミジなのである。
事の発端はある企業のイベントだった。呼ばれて俺は静岡県まで出かけ、そこの社員たちが熱心に作り上げた様々なブースを見て回ることになった。学園祭的にアットホームな熱意が巻き上がるそれぞれのブース。ひとつひとつの内容をしっかりと見ながらも、俺にはどうしても気になることがあった。ある部屋に演出としてこんもりと盛り上げられた土があり、そこに数本の幼いモミジが植わっていたのである。
林の中に下生えとして伸びたばかりのようなモミジは、糸のように細い茎に四枚の葉をつけていた。根に近い部分の二枚は紡錘形でこころもとなく、種を破って出てきた時の様子をそのままにとどめている。これがモミジの最初の葉なのかと俺はまず学究的に感動した。そのなんの変哲もない双子葉の上には、驚くべき小ささのあのモミジの葉があった。ミクロながら葉はぎざぎざと割れて、我々が通常見るモミジとなんら変わらない。
赤ん坊の手をモミジみたいだと人は言うが、そこではモミジの葉が赤ん坊みたいなのだ。造化の神秘である。というか、人間は同じ形が妙に小さかったり大きかったりすることに神秘を感じてしまう。俺はもうどうしようもない気持ちになって、そのモミジたちのそばに座り込み、しげしげとそれを見つめ続けた。
周囲にいた人はどうしたのかと声をかける。それはそうだろう。呼ばれて行った社外の人間が突然しゃがみ込み、立ち上がれなくなっているのだ。心配しても無理はない。俺は即座にこのモミジをいただけないかと言った。すると、周囲の人々はあっけにとられて黙った。真剣な目をしてモミジを所望する人間は初めてだったのだろう。俺は重ねて言った。一本だけでいいんです、もしも駄目なら諦めます。
誰かが俺の腕を取り、立ち上がらせようとしていた。正気を失ったと思ったのかもしれなかった。俺はモミジを見つめたままその人に引っ張られ、部屋から外に出された。連行者は俺の耳元でこんなことを言っていた。今、担当者に聞きますからね、大丈夫ですよ、きっと大丈夫です。おそらく、その人は俺の頭のことを含めて、大丈夫ですと言い聞かせていたに違いなかったのだが、俺は何も気づかずにただモミジをもらえる可能性にだけ心躍らせていた。
数分後、満面に笑みを浮かべたおじさんが近づいてきた。担当者が見つかりましたよと言うのだった。すぐ後ろにその担当者がいた。背の高い青年だった。手には黒ビニールの鉢を持ち、目を伏せている。ビニールにはモミジが二本植えられていた。俺は思わずありがとうございますと言ったのだが、同時に青年の悲しそうな表情に気をとられていた。
おじさんが言うのには、モミジはその青年の持ち物なのだった。彼は自分で育てていたモミジを、そのイベントのために持ってきたというのだ。社員が自発的に作るイベントゆえ、彼は宝物を貸し出そうと決意したわけである。青年は俺の前に座り、大事そうにモミジを差し出した。顔は伏せたままであった。俺はすぐにその気持ちを察した。
いや、そんなに大切な物をもらうわけには……。俺は口の奥でモゴモゴ言った。それでいて目は輝き、モミジの葉をしっかりととらえていた。青年はようやく顔を上げ、一生懸命育ててやっとここまでになったんですと言った。言ってすぐ、俺の欲深げな視線に気づいた様子なので、俺は声の調子を上げた。ごめんなさい、知らなかったもので……それは是非あなたが育てないと。
しかし、青年はもうあきらめていた。大事にしてくれますかと一言聞いてくる。俺はほとんど大声で、もちろんですと答えた。半日陰がいいですかね、やっぱり森のものですから、直射日光じゃ駄目ですよね? 俺は青年に安心してもらおうと矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。だが、彼は首をかしげて、さあ……と答えた。俺ははっとして顔を赤くした。彼はそんなさかしらな態度でモミジを五センチにまでしたのではなかった。心ひとつで育てたのである。その人の前で、半日陰だ、風通しだとテクニカルな言葉を並べる俺は、もはや軽蔑するガーデナーと一緒だった。赤玉三割に苦土石灰、そして固形肥料を二個などという知識におぼれた亡者同然なのだ。
その俺に向けて、青年は再び大事にしてくれますかと聞いた。俺はもう何も面倒なことは言わなかった。ただただうなずき、最後に必ず大事にしますとオウム返しにした。
新幹線の中でも地下鉄の中でも、俺はモミジのことだけを考えた。乾いていないか、濡れすぎていないか、熱風が当たっていないか、折れていないか。うっかり一本下さいと言った俺は、他人の宝物を預かり、まったく風土の違う土地に移動させてしまうことになったのだ。インコを預かって死なせてしまうのと同じ恐ろしさがあった。俺は命がけでモミジを守らなければならなかった。
家に帰り、本をめくってみたのだが、モミジの項目にはそれほど小さな苗木のことなど載っていなかった。とにかく、直射日光は避けようと北向きの窓際に置いた。そこではすでにミントが異常発生しており、案外いい場所だと考えていたからだった。翌日も翌々日も、俺はことあるごとにモミジを見た。なんとか弱らずにすんでいるようだった。
ところが、葉が赤くなり出した。三日目のことである。まるで紅葉のようにして、モミジの葉は透明感のある緑色から斑点状の赤へと変色し始めた。今じゃない、今紅葉しなくていいんだ、それは十年後で十分なんだよと俺は何度もささやきかけた。ささやくことぐらいしか、俺にはしてやれることがなかった。だが、モミジは助言を聞き入れず、赤くなっていった。茎の先端から生まれ出つつある、ミニチュア細工のような新しい葉もしおれかけているように見え始める。俺は心臓をつかまれるような気分で暮らした。俺は預かり物を殺してしまうのか!
数日後、緊急措置として南向きの窓際に移動させた。少し日を強めに当てるしかないと思ったのだった。理由などなかった。北向きで駄目ならという思いだけがあった。位置の移動は鉢にストレスを与える。だが、そのまま北向きの窓際に置いておけば、枯れてしまうに違いないと俺は冷や汗をかいていたのだ。小さな鉢を日の当たる床に置き、四つん這いになって、どうか死なないでくれとモミジの葉に鼻をつけた。何度も何度もそうした。すでに葉はレンガ色となって燃えさかっていた。俺はまさに伏して拝むような格好のままで、モミジを説得し続けた。根をつけてくれ、大丈夫、必ず大切にするから。
念力が通じたとは思わない。そして、モミジは自分の力で生きることを始めた。葉も茎も赤くなったものの、モミジ二本はそれぞれ先端の赤ん坊を落とすことなく、長さ数ミリの体を広げさせたのだ。俺は今度はうれしくて四つん這いになり、彼ら小さき者の獅子奮迅の努力を称えた。経験から言って、難所はすでに乗り越えていた。おそらくモミジはヒゲのような根を張り、土の様子や日の当たり具合に慣れながら、大きくなろうと背を伸ばし始めているのである。
少し背の低い方の一本は、すでに三番目の赤ん坊を空に向かって生み出そうとしている。一ミリもないほどの、小さく柔らかそうな葉が飛び出ているのだ。まだ形もないように見えるその葉も、ほんの数日経てば自分が誰の木として生きるのかを示し、しなやかに広がるだろうと思う。
これから幾つの難所があるのかはわからない。なにしろ、この預かり物の生命は長いのだ。だが、俺はそのモミジの苦しみを横で必ず見ているだろう。
してやれることはほとんど何もない。しかも、やつの苦しみの原因はおそらく俺の水やりの加減や、植え替えの失敗なのである。つまり、これから先も悔恨ばかりが多く、せっぱつまった時には手遅れで、何ひとつ出来ないままじっと耐え忍ぶことを余儀なくされ、あとは祈るだけしか方法がなくなる。
だが、俺はもう知っている。それが植物を愛するということなのだ。
そして、やつらが返してくれるものといえば、新しい葉ひとつ。つまり、体が震えるほどの悦び。
●三月のカルセオラリア/風船と金魚(1998,3,31)
今月を盛り上げてくれたのはモミジばかりではない。新顔として窓辺に現れ、そのかわいらしくも奇妙な花を見せつけたカルセオラリアも、俺の生まれ月である三月のベスト鉢賞を受賞している。
カルセオラリアの何が面白いといって、その花の形が袋状なのである。それも蘭のように壺に似た形ではなく、まさに空気でふくらんでいるかのような袋状。銀色の貝のような風船があるが、ちょうどあれに似ていてしかも柔らかい。
俺が買って来た花は裏側が黄色で、表に赤を刷り込んだような品種である。他にも赤一色だったりするものがあるが、俺としてはこの色模様をお薦めしたい。家に持ち帰って花にそっと触れてみると、ぺこっとへこむ。形を戻すにはわずかに開いた穴から息をふき入れるのが一番で、それがまたなんとも風船に近い。
よく見れば方々に新しい花が生まれ出ており、それらは小さくとも一人前の風船になっている。まるでミクロの泡のような具合だ。よくしたもので、泡は泡なりに少しずつ育ち、形を崩すことなく大きくふくらむ。日々空気を吸い込んでいくようで、どうにも可愛い。
ただ、花の終わりはその分悲しいことになる。やつらは急激にしおれてあれよあれよと黒ずみ、やはり割れた風船のように一気に小さくなってしまう。そして、近くの花にぺたりとくっつく。取りのけようとすると、丈夫な花の方が割れてしまいそうで少々厄介である。
しおれずに落ちた花はしばらくふくらんだままでいる。茎に支えられて空中に浮かんでいる間はいかにも風船らしいのだが、落ちると今度は金魚を思わせる。持ち上げて茎との接点を見れば直径数ミリの見事な穴があり、それが魚の口に実によく似ている。横たわってじっとしている姿がかわいそうで、俺などついに小型のグラスを出してきて水で満たし、その中に泳がせたものである。プカリと水に浮いた花は時おり風で揺れる。まさにゆうゆうたる魚の風情である。
そろそろ魚になるものの方が多くなりそうなカルセオラリアだが、いまだ残る花の中へと俺は毎日息を吹き入れ、風船としての一生をながらえさせている。そして、いざ金魚になってしまえば、すぐさま拾い上げて水に放す。あたかも一生に二回生きるような花である。
風船として生き、第二の人生を金魚として過ごす。カルセオラリアはキュートな風来坊なのである。
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