とんでもなく早く、暑い日々が訪れてしまった。クーラーをほとんど使うことがない俺は、ひいひい言いながら浴衣をはだけ、水を浴びたりして暮らしている。
こんな暑さでは、ベランダの養生に一時も気が抜けなくなる。結局まだ引っ越し先を見つけていない俺は、南西向きのベランダに植物どもを置いたままでいる。夏の日射しを受けると、コンクリートは確実に卵が焼けるくらいの熱を持つ。いくら風があっても、ベランダを通ると熱風になってしまうほどだ。
植物どもがへたばらないように水をやりたくても、午後の日射しが強いうちは厳禁である。熱湯をかけるのと同じことになる。したがって、昼過ぎに起き出した俺は、火災発生のビルをガラスごしに見ているような気持ちで、何度も何度も外の様子をうかがう。
朝方、寝る前には水をやっている。だが、その湿気がいつ熱湯に変わっているともしれない。心配のあまり涙ぐみそうになる俺の目には、鉢がカップヌードルに見えてくる。せっかく狂い咲きしたボケの赤い花が乾燥エビみたいに思え、藤の蔓が麺のごとく感じられてくるのだ。
すると、“三分たったら煮えてしまう”と
いう強迫観念が襲いかかってくる。普通煮えれば食べるのだが、ベランダ界では煮えたら捨てるのである。そんなことが許されていいものかと憤りつつ、じゃあ部屋に取り込んでやるかといえばそうでもない。取り込むべき鉢はすでに避難させてあり、間取り上もはや一鉢も移動させられないのである。
そんなタワーリング・インフェルノな状態を正視出来ず、やがて俺はふらふらと商店街まで足を伸ばす。汗をふきふき、道を歩いて花屋の前まで来る。さすがに、花屋は鉢を涼しげに保っている。南西向きのベランダで花屋を開業する馬鹿はいない。立地がいいのである。
激しい日射しを浴びつつも、植物たちはさわさわと風に揺れている。水を打った道路から蒸発した水分が、風に適度な冷たさを与えている。どの花も葉も、夏を謳歌しているように光っている。そして、俺はついつい生きのいい鉢を買い足してしまう。
涼気を買うなどといって風鈴を求めたり、朝顔を持ち帰ったりする人がいるが、俺は少し立場が違う。まず第一に、ベランダにおける酷暑地獄という現実から逃避し、あたかも自分の家のベランダが花屋の前のように涼しげであると思い込みたいのである。
第二に、熱湯を吸い上げて自ら組織を破壊してゆく植物どものかわりに、次々と新しい戦士を送り込もうという無意識が働いている。
死んだら次の歩兵を投入し、夏に負けまいとしているのだ。日露戦争における二〇三高地みたいなことである。緑の量で勝てばいいという、わけのわからない判断が存在している。大体、夏と戦うのは植物であって、俺ではない。だが、暑さはそんな間違いを正当化させるほどの力を持っているのだ。
したがって、ベランダ界の乃木将軍たる俺はまずルドベキアの小鉢を進軍させた。ちょっとヒマワリにも似たかわいいやつである。だが、すぐに花弁がカリカリしてきたために、早期撤退を余儀なくされ、置くところがないはずの室内に無理矢理まぎれ込ませた。新入りをえこひいきしたのであった。
続いて、丈が三〇センチほどのダリアを安く買ってきた。こいつも開きかけた濃い赤の花がドライフラワー化した。あわてて眠らせてあった球根の鉢をベランダに投下し、かわりにその位置にダリアを置いて休ませることにした。今さえよければ、秋からの球根ライフを無駄にしてもいいという背水の陣だ。このままでは完敗である。
俺は朝顔を買い、夕顔を買って両軍をベランダ前方に配置するとともに、昔誰かにもらったらしき朝顔の種を発見し、それを新しい鉢へと空から投げ入れた。隣の鉢に土を盛り、そこに季節はずれのバジルとラベンダーの種をまいて、芽が出るまでの辛抱とフタをした。なんでもいいから徴兵しようという末期的な状況にまで追い込まれたのだ。
ちっとも花を咲かせない月下美人を窓際から書斎に移動させ、幾つかの枝を切って水を吸わせた。そこから新しい夜軍が生まれないかと期待したのである。ちなみに、月下美人があった場所にはコーヒーを置いた。ベランダを見守る部隊としてはなるべく丈の高いやつがよかろうと思ったのだった。気分の問題である。
さらに日光大好きだというマダガスカル・ジャスミンまで買ってきた。こいつは戦力になるかもしれないというささやかな希望は、ポロポロと落ちてゆくクリーム色の蕾とともに消え去った。悔しいのでヒマワリの切り花まで買った日もあったが、これこそ無意味だった。ベランダとも鉢植えとも関係がなかったのだ。俺としては、ともかく夏に強い植物を揃えたかったのだと思われる。
だが、ふと見るとベランダの植物どもはどれひとつ枯れてはいないのだった。すさまじい暑さの中、やつらは意外なほど生き生きと暮らしているのである。新入りが病に倒れていくのをよそ目に、古豪はにんまりと微笑みつつ熱に耐えているといった感じさえある。
こうして俺は、錯乱によって増やしてしまった新入りの鉢どもを抱え、さらに心配事の多くなったベランダを見つめている。
この夏は長そうだ。果たして俺は、我が軍精鋭、ならびにぼろ兵士をどこまで守りおおせることが出来るのだろうか。
すべてのベランダー諸君!
俺もやっている。
君の苦労は一人のものではない。
撤退することなかれ!
●七月の朝顔/朝顔どもや(1997,7,23)
ベランダに『顔スペース』というものが出来た。朝顔と夕顔を並べただけのことなのだが、「カオスのペース」とも読める名前にほくそえんだりしている。
通常、“ほくそえんだりしている”というのは比喩的に使われるけれど、俺の場合は違う。朝顔・夕顔の前で、本当ににやにやしているのである。
一番左には花屋から買ってきた朝顔の小さな鉢。その右にふたつ置かれているのは、いつだったか人からもらった種をまいた鉢。最も右に控えるのは購入した夕顔。
夕顔は驚くほど成長が早く、顔スペースでぐにゃりぐにゃりと伸びて、三日ほど前に花を咲かせた。
その日、緑色をして口をとんがらせていた蕾が、いつの間にか白く変わって突き出ていた。長さは三、四センチあったろうか。先端が子供の性器みたいにねじれてすぼまっており、なんだかかわいかったので触ってみた。繊細な花の柔らかさが伝わってきて、俺はあわてて手を引っ込めたものである。
ところが、ほんの五分後、夕方の水やりを始めながらふと見ると、早くもやつがほころび出していたのだった。ねじれをゆっくりと解きほぐし、ふくらんでいく夕顔の蕾。その様子はビデオの早回しのようでもあったし、スローモーションのようでもあった。
俺はジョウロを持ったまま座り込み、暮れてゆく夏の日のベランダでその不思議な時間のねじれにため息をついたのである。夕顔の蕾はねじれと反対に回転し、我々動物の時間をも狂わせている。そう思うと、非常識という言葉が頭に浮かんだ。植物は非常識だ、やつらの生きている時間が非常識だ、いや存在そのものが大いなる非常識なのだ。
当初、ただの語呂合わせに過ぎなかったカオスのペースとは、まさにうってつけの名前だったと自分を誉めながら、俺は夕顔が開ききるまでベランダにいた。そして、植物という生命の非常識が、我々人類の文化・文明にどのような影響を与えたかについてあれこれと考えた。考えるうち、それは壮大な思考になっていった。
これはいずれ、ボタニカル論としてまとめていくはずだが、ひとまず俺は世界を「植物にアイデンティファイする文化」と「動物にアイデンティファイする文化」のふたつに分けたのであった。「植物派」は草花の非常識に憧れ、必ず「輪廻転生」などという概念を作り出す。幾度も幾度も生まれ変わるという、俺からすれば単に反ロマンチックな馬鹿らしい考え方は、すなわち枯れてしまった花の種が翌年再び芽吹くことの比喩でしかない。しかし、ボタニカルな民族は植物的な時間をなんとしてでも自らのものとしたかったのだ。いわば人間は一年草だからである。生まれ、育ち、開いて衰える。生きるサイクルが、我々にはたったひとつしかない。
夕顔が小さな花を咲かせるまでの短い時間に、俺の脳もまたおそろしい速度でねじれ、花開いていたのだった。
その横の種どもももちろん面白い。もう十センチほどに丈を伸ばしているのだが、いまだに種の殻を葉の先につけたままでいる。なんだかほ乳瓶の吸い口をくわえた青年といった有様で、なるほどこれが朝顔の魅力のひとつだったのだと納得せざるを得ない。
人は朝顔に葉水をやりたがる。夏に涼をとるためだというが、俺はそれだけの理由とは思わない。我々はどこかに乳幼児的な甘えを残した朝顔に水を与えたくて仕方がないのだ。その甘えが我がことのように思えるからである。母恋いの要素を濃く保つ朝顔だからこそ、我々はこの植物を愛し、せっせと世話をする。
つまり、朝顔は自分の中の幼児性を象徴しているのである。
ごたぶんにもれず、俺も朝顔にせっせと水をやっている。夜は葉水をやり、月の光の下でそいつを見つめてはうっとりする。種殻をつけたまま、朝顔はすっかり大人になったような様子で風に揺れている。
やつは揺れながら育ち、やがて太陽注ぐベランダにあの子供の性器を突き出すだろう。自分の天下を謳歌し、あたかも一人前の男のように雄々しくふるまおうとするに違いない。
しかし、その蔓は細く若々しく、そして弱い。花もまた、ぎゅっとつまめばちぎれてしまうくらいの薄さである。
若気の至りだ。朝顔は若気の至り。あるいは稚気そのもの。
まだ母恋しい年で、立派に刀など指してみせ、馬にまたがって胸を張る若武者のような植物。
その子供らしさを、我々は長く愛してきた。植物にアイデンティファイする伝統の中で、大人になりきらぬ朝顔に目を細めてきたのである。
俺たち男にとっては、その朝顔はどこか自分である。あって欲しい。朝顔の稚気を許すように自分を許して欲しい、と俺たちは心の底の方でうっすらと願っている。
願いながら水をやっている。
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