胡蝶蘭/ヒヤシンス
●一月の胡蝶蘭/第二の人生
今年もヒヤシンスがその仕事を終えた。
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今、俺の部屋は花盛りだ。
アマリリスは最後の株から四つの花を咲かせ、オブコニカも咲き続けている。以前枯らしてしまい、買い直した小さなボケも窓際に赤いポイントを作っているし、あの雛鳥(photo)も白と紫のかわいらしい花を咲かせ、実際は寒咲きクロッカスだったことを証明した。
その花盛りの中でひときわ光るのが胡蝶蘭である。
俺のもとにやつが来たのは、確か一昨年のことだったと思う。すでに盛りの時期が過ぎ、わずか三つの白い花を咲かせるだけだった胡蝶蘭は、たったの八百円というすさまじい値崩れを起こしていた。本人もさぞ悔しかっただろうと思う。若い頃には
ひとケタ違いで売られていてもおかしくないからである。
だが、もしも高ければ俺は興味を示していなかっただろう。蘭には特に思い入れがなかった俺は、ただただ八百円という値段にのみ心を動かされたのである。
ところが、やつは頑張った。残る三つの花は一、二カ月の間あの不思議な生物のような形を保ち続けたのだ。だから、俺はやつが花を落としてすぐ、乾燥水苔を買ってきて植え替えを行い、それまでの苦労を慰めてやったのである。
花屋において、胡蝶蘭はエリート官僚のようなものだ。必ずどこの地方にもひそんでいて、他の花を後ろからひっそりと、しかし睥睨するように存在している。とりあえず信頼も篤いが、あまりにも見慣れているために軽蔑もされやすい。
そんな東大卒の花が、俺の部屋に来るほどにおちぶれたのである。天下り先の花屋にも見くびられ、八百円などという厳しい評価に甘んじたあげく、あまったニンニクやクレソンまで植えてしまうような豪快一本槍の地方へと招かれた。
しかし、やつは底力を見せた。新しい水苔で環境をすっかり変えた元高級官僚は、本来持っていた植物のパワーを取り戻し、なんと三カ月もしないうちにまた茎を伸ばして、そこに六つほど花をつけたのだ。いわば、たった一人で開催した花博である。
俺はその寂しいけれど力強くもあるイベントに毎日拍手を贈った。官営イベントとして開店祝いだの完治祝いだのを主催し、誇らしげに咲く花である胡蝶蘭が、なんとおちぶれた先で野性味あふれる博覧会を行ったのだ。これは感動する以外あるまい。
そして、さらに半年後の今年一月。やつはなんと、同時に二本の茎を伸ばし始めたのだった。その矢継ぎ早な成長もすごいが、一度に二本という生命力がまたすごい。第一回花博の成功に気をよくした元エリート官僚(現在野)は、通常のイベントの常識を破って、すぐさま第二回を敢行せんとしたのである。
どこか鹿の足先にも似た茎がまず出てくる。先端の爪が割れ、それがわずかにふくらんで花の用意をする間に、一方の茎はどんどん伸びる。そしてまた滑らかな緑の爪を割り、そこにも花を用意する。その過程をつぶさに見ていると、胡蝶蘭はどこか動物くさい。子宮の中で成長する胎児を思わせるような分裂があり、同じような形のなまめかしさを持っているのである。
艶やかな蕾は最初、クリトリスに似ている。濃い緑色に染まったその固い蕾が、次第にふくらんで色を薄くしていく。豆菓子ほどの大きさから、ふっくらした梅干しくらいに膨張すると、やがてぽっかりと花を開く。これは本当に聞こえる音だ。花に目をやる度、ぽっかりという音が俺の耳に響くのである。
最も下の花弁の先は竜の髭のようにくるりと巻き上がっている。そのクリーム色の髭の奥に、濃い赤と黄色の点が描かれている。いつ羽根を生やし、その口で蠅や蚊を食いながら飛び回るのだろうと思わせる。不気味でしかも清廉な花である。
今、第二回花博は始まったばかりだ。ちょうど二つ花が咲いている。初めに伸びた茎の根元から咲き始めた胡蝶蘭は、おそらく二週間もすればもう一方の茎にも花をつけるだろう。花博はクライマックスを迎え、二カ月ほど国民を楽しませるに違いない。
窓際に置かれた丸テーブルの上。俺の部屋で一番待遇のいい場所に、その元高級官僚は立っている。あり得ないような周期で次々にイベントを行い、年老いるごとに美しく強くなっていくそいつは、おそらくこの上もなく幸福な人生を送っている。病院だの楽屋だのを訪れ、しかしそのまま枯れてゆく元同僚と我が身を引き比べ、自らの生の充実に涙を流している。
その涙がつまり、白い花なのだ。
そして、生の充実が茎である。
俺はやつの肩を叩くようにして、丁寧に水をやり続ける。
●一月のヒヤシンス/生命解凍
もともとは、去年の秋、なじみの花屋さんがくれたのである。何かを買ったついでのことだったと思う。
すでにプラスチックの透明な鉢に設置された球根。なんだか『科学と学習』の付録をもらったような気がしたものだ。
その『科学と学習』感は、取り扱い説明書を読むことでさらに強まった。そこにはこんなことが書いてあったからである。“正月頃に咲かせるためには九月中旬までに冷蔵庫に入れ、十一月下旬に取り出して暖かな場所に置きます”
プラスチックにかちりとはめられた球根は、なんと冷蔵可能なのだった。それでも死なないどころか、開花時期をコントロール出来るというのだ。
俺はこういうものに弱い。
どういうものかというと、他に例はひとつしかないのだが、つまりシーモンキーである。いい年をしてからも、俺はシーモンキーを何度か飼育し、失敗してきた。一昨年から昨年にかけてのことだったと記憶する。すぐに死滅してしまうシーモンキーにこちらは幻滅し、近頃のシーモンキーは弱いなどと憤慨した。
話はそれるが、俺はついさっきまで、用もないのにしりあがり寿さんの事務所にいた。その前の仕事が一緒だったからである。テレビの横に怪しげなプラスチックの水槽があった。俺はつかつかと近寄って中を覗き見た。思った通り、シーモンキーだった。
「あ、元気ですね、ここのシーモンキー」
あたかもシーモンキー飼育が当然のことのように俺は言った。かなり変わった反応だと思う。だが、しりあがりさんの反応はもっと変わっていた。
「え、生きてますか? ……なんにも世話してないんですけどねえ」
「エサも?」
「ええ、なくなっちゃったから」
俺は笑った。そんないい加減な飼い方は聞いたことがなかったのだ。なんだかインテリアみたいなものとして、しりあがりさんはシーモンキーを飼っているらしい。しかも、近頃ではなんの世話もしていないのである。だが、やつらはしっかり生きて、ぐんぐん育ってしまっているのだった。実にうらやましい。うらやましい限りのシーモンキー飼育生活である。
話を戻そう。そんなシーモンキーたちとヒヤシンスの何が似てるといえば、すなわち“凍りついた生命とその解凍”の一点に尽きる。シーモンキーの卵は乾燥に耐えて生き続ける。そして、ある種の水の中で突如エビとして復活する。その不思議さが子供の頃から俺の魂を惹きつけ続けてきたのだ。
ヒヤシンスにも、俺は同じ興味を感じる。冷蔵庫に入れてしまってもいい球根は、そのまま乾燥しきった卵だ。そして、冷蔵庫から太陽の光の下へと移されて茎を伸ばし、花を咲かせるヒヤシンスは、一晩で孵化を終えて泳ぎ出すシーモンキーである。
結局俺は、“生命の開花”に弱いのだと思う。もっとくわしく言えば、“生命の開花が唐突に行なわれる神秘”だ。時期さえ来れば、やつらは生命を開く。逆に言えば、その時期までやつらは死んだように眠っているということになる。
俺はつまり、植物すべてに弱いのだ。死んだものが生き返り、信じられない速度で育っていくこと。それは俺の根源的な何かをくすぐってやまない。だから、ベランダで毎日俺は、ガキみたいに目をまんまるにして、その不思議を見つめているのである。
ヒヤシンスという植物は、最もわかりやすくその不思議を示してくれる。言ってみれば、俺にとっての植物の魅力を模型化したような植物だ。
その模型としてのヒヤシンスが花を枯らした。去年はもう少し長く咲いていたような気がする。ひょっとしたら、冷蔵庫から出す時期をすっかり忘れていたからかもしれない。俺は今年になってようやく思い出し、キンキンに冷えた球根をあわてて日に当てたのである。
だが、ともかくやつは育ち、プラスチックのような質感の白い花を咲かせた。去年株分けしておいた小さなやつらも、別の鉢からかわいい葉を出し始めている。
俺はまた今年も冷蔵庫にヒヤシンスをぶち込むだろう。植物の魅力に心を震わせるために、いったんやつを忘れ去り、死んだように眠らせるのだ。
凍りついた生命とその解凍。
なんてことだ、まったく。
植物は死なない。俺たち動物は、だからやつらに憧れ続ける。