55-8-4(アナグラムのソシュール 2/21/2001)
さて、アイヴァンスの本が届くまでには時間がある。ある程度の場所を特定して、それを理解するまで にはさらに長い時間が必要だ。 その隙に、というのも変だが、ここでソシュールのアナグラム理論を簡単に整理しておこう。
1906年あたりからソシュールは古代詩の中にひそむアナグラムについて考えるようになった。 1894年以降、科学的言語学の展開に挫折し、すなわちのちの『一般言語学講義』の基礎まで詰めてお きながら、彼は様々な別の研究に没頭して沈黙を続けたのっだる。 このとき、ソシュールが“発見”したアナグラムの法則には、大別してふたつの種類がある。 ひとつは「対化の法則(クプレゾン)」。 そして、もうひとつが「テーマ語の法則」だ。
後者から見ていこう。 広義のアナグラムは四種類に分類される、と故丸山圭三郎氏はいう。 1.アナグラム(テーマ語がいくつかの単音に分けられて散在するもの) 2.アナフォニー(アナグラムの不完全な形) 3.イポグラム(テーマ語がいくつかの複音に分けられて散在するもの) 4.パラグラム(テーマ語がアナグラムより広い範囲、すなわちテクスト中に散種されているもの)
単音か、複音か。つまり「a」で現れるか、「po」といった複音としてあらわれるかにまで、ソシュール はこだわった。 しかし、とにもかくにもさらに上記のアナグラムの前後には、“テーマ語の頭音と末音から成る特定の語 群が存在”し、ソシュールはそれを「主座(locus princeps)」、あるいは「マヌカン(mannequin)」 と呼んでいる。 55-7-6に挙げた例を再び見てみよう。図36である。
図36 |
「a」で始まり、「o」で終わるのはテーマ語の「apolo」であり、そのマヌカンである「ad mea templa portato」である。後者があらわれれば、その前後の文中に「a」「po」「lo」が頻出するということだ。 それが単音(「a」)で散在すれば狭義のアナグラム、複音で徹底されていれば(「po」)イポグラムとな る。さて、55-7-6をくわしくおさらいしてみた。
しかし、これでは冒頭に書いた二種類のうちの、ひとつを説明したことにしかならない。 ソシュールはもうひとつ、「対化の法則」を“発見”しているからである。 この「対化の法則」とは何か。これがまた興味深い。
昔懐かしい『象徴交換と死』(ボードリヤール)から引用してみよう。 「サトゥルヌス詩形においては、母音は対抗母音をもたなければ姿をあらわすことができない。詩句の音節 が偶数であれば、母音は正確に二つずつ組にされることになり、それぞれの母音ごとに、つねに、偶数の数 字とともに、ゼロしか残らないようにしなければならない」 子音についても同様で偶数個ずつ存在せねばならず、もしも奇数で処理しきれない場合には残滓として次 の詩句に送られる。 それが「対化の法則」、クプレゾンである。 ボードリヤールはこの不可思議な法則を次のように解釈している。 「彼の法則によれば、ただひとつの母音も子音も音節も、その分身をもつことで二重化されなければ、つま りいわば悪魔祓いを受けなければ、それらの母音や子音や音節を取り消す反復がなされなければ発せられる ことができない」
ひとつの母音は、どこかで同じ母音があらわれることによって帳消しにされ、ゼロを目指す。子音も同様 だ。そうボードリヤールは強調し、その法則のもとにテーマ語の法則が重なれば、それは「神が、神の名の なかで解体され、バラバラにされ、供犠に供される」と言う。 アナグラムを“豊かな詩法”と解釈する者たちに、ボードリヤールはまったく逆の、いわば「ゼロに還る 詩法」とでもいうべきものを示したのである。
しかし、もうひとつ、我々が言っておかなければならないことがある。 ひとつの母音にもうひとつの同じ母音が“対抗”し、ひとつの子音に同じ子音が“対抗”するというこの 図式は、そのままチェスなのである。勝負が始まる前の盤面。白の力と黒の力が拮抗しあい、鏡像の状態で 同じ駒が向かいあう。 いざゲームが始まれば、同じ駒が同じ駒を取るとは限らない。だが、少なくともテクストの中に「a」が 発見され、それを“消す”ような対抗母音「a」を見つけ出しては消していく作業の中で、ソシュールがチ ェス・ゲームを想起したことは十分にあり得る。 最後に残るのはエンドゲームのような少数の駒だけが散らばるテクストという名の盤面だ。 そこに残滓がいくつか存在し、互いを消しようもなく立ち尽くしている。 互いの“効き”の抽象的な力。対抗しあう力。 アナグラム研究の中でも、ソシュールは「鏡像的分割」の観念を捨てない。 捨てないどころか、さらに強調しているといっていい。 ソシュールの言語観に横たわる「鏡像的分割」のテーマは、まさにアナグラム研究においてこそ明確にあ らわれている。 この力をソシュールは「言語はチェスに似ている」と表現したのである。前田英樹氏は“チェスという比 喩は盤面、駒という実質を想像させてしまうがゆえに致命的だ”という。 だが、例えば大作家ナボコフのチェス小説『ディフェンス』からの引用で、この思い込みを打破しよう。 「(駒を)瞬時に並べ終えると、たちまち物質的な側面は消え失せた。(中略)残っているのは複雑で、刺 激的で、驚くべき可能性をはらんだチェスの局面そのものだけになった」
ソシュールのチェスの比喩は、プレイヤーを念頭に置いたものに違いない。彼もまたプレイヤーだったの だから。 プレイヤーにとって、盤面や駒などという物質はむしろ邪魔なものである。 脳内にあらわれるあらゆる方向に広がったり縮んだりする“対抗力”のようなもの。白側からも黒側から も同時に把握しなくてはならない、その空間の中で、両側から押し合う非物質的な力そのものがある。 ソシュールはそのことを言っているのだ。 それが言語なのだ、と。 そのどこが「まずい比喩」なのだろう。
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