55-8-1(「ブルネレスキとデュシャン」 その1 1/24/2001)



 話は一昨年にさかのぼる。

 ちょうどその時、僕は『デジデリオ・ラビリンス』という本の文庫版に関してあと書きを  頼まれていたのだった。それは森下典子さんの“転生”をめぐるノンフィクションで、単  行本の時にすでに読んでいた。ある人に「ルネサンス期の芸術家の生まれ変わりがあなた  だ」と言われ、半信半疑で調査を始めるというのが内容なのだが、文庫版あと書きにも書い  たように、僕は“生まれ変わりを信じる”とか“信じない”とかいうこと自体に無縁であろ  うと考えている。むしろ、その生まれ変わりの物語が“役に立つか立たないか”だけが重要  だと思うからだ。「信じる・信じない」という指標そのものが罠である。どうでもいい。

 さて、まだあと書きを書いておらず、準備のために再び『デジデリオ・ラビリンス』を読ん  でいる時のこと。僕は仕事で福岡かどこかに行っており、話に出てくるフィレンツェなどに  思いをはせていた。ルネサンス、フィレンツェと考えていけば、僕の興味の範囲では当然レ  オナルド・ダビンチに行き着く。デュシャンが意識していた唯一の芸術家だからだ。

   あと二十分ほどでホテルを出なければならないという時になって、僕は本をデスクの上に置き、  テレビをつけた。すると、まさにダビンチとフィレンツェに関する番組をやっていたのである。  まったくもって偶然にも。

 番組はダビンチが私淑していたルネサンスの偉大な建築家、フィリッポ・ブルネレスキの特  集だった。確か『デジデリオ・ラビリンス』にもその名が出てくる芸術家だったから、僕は  その名前を二度と忘れられなくなった。なんだか、その偶然が強烈な体験になっていたのだ。

 以来、ブルネレスキ、ブルネレスキと……理由もわからずに口ずさんでいることがあった。  しかも、「55ノート」にも様々に引用した『不実なる鏡』の中にもその名があり、自分でも  ブルネレスキがデュシャンの「遺作」の謎を解く重大なカギになると考えていたくせに、今  の今までぼんやりしていた。何も書かずにいた。  僕はいつでもそうだ。一番大切なことを忘れてしまう。

   そもそも、テレビで偶然にブルネレスキの名に出会った時、僕はわけもなく“この人だ!”  と思ったのだった。何か理由があったに違いないのだが、僕は忘れてしまった。だから、今  から書くことは最も大切な直観を忘れたままで進む。

 まず、『不実なる鏡』からひとつの絵を引用させていただく。  


図37(人文書院『不実なる鏡』より)


 これは「フィレンツェの大聖堂の中央扉口から眺められた洗礼堂を、可能なかぎりイルージョ
 ニスティックな仕方で、厳格に遠近法を適用しながら描き出した小さな板絵」である。女性が
 左手で持っているのは鏡で、右手に持っているのが板絵だ。板には小さな穴が開いており、人
 はそこから鏡を見る。すると、「板の表側の絵がその鏡に映し出される」のである。

 これは十五世紀初頭にアントニオ・マネッティが書いた『ブルネッレスキ伝』に記録のある装  置で、幸い日本では中央公論美術出版から出ているのでくわしく読むことが出来る。そこにあ  る図はアレッサンドロ・パッロンキ教授によって想像復原されたものなのだが、『不実なる鏡』  で著者テヴォーが示してくれた図より正確である。それを以下に引用する。


図38(中央公論美術出版『ブルネッレスキ伝』より)


 確か透視図法を確立したといわれるブルネレスキは、このような形で洗礼堂を左右逆に描き、鏡
 を通してバーチャルなリアリティを追求したのだが、驚くべきことに、板絵には「自然の空間と
 空がそこに写るように磨いた銀箔が張ってあった」という。「したがって風が吹いた時には、動
 く雲がその銀板に見えた」というのである。雲はまず人がのぞいた板絵の裏の銀箔に映り、それ
 がさらに鏡に映る。ブルネレスキはそのように複雑な方法を用いた。

 覗き穴から覗いた絵を完全に鏡の中におさめるには、一定の距離が必要だった。ブルネレスキは  それをも計算していた。距離は「その図を描くように指定した場所から、サン・ジョヴァンニ教  会までの現実のブラッチョ(注・当時の単位で約六十センチであり、「腕」の長さをあらわす)  による距離と、ほぼ同じ間隔」だとマネッティはいう。  「ほぼ同じ間隔」とは、つまり「ほぼ同じ比率」という意味だろう。  『不実なる鏡』でテヴォーは“なぜだまし絵ではなく鏡像装置なのか”と自問し、「視野はその  全体がこの鏡によって占められるからだ」と言っている。しかし、それはあまりに単純な理由だ  ろう。ブルネレスキは見る者を「現実のブラッチョによる距離と、ほぼ同じ距離」に置こうとし、  いわば透視図法の計算のただ中に鑑賞者を巻き込もうとしたのである。  それはデュシャンの「遺作」の意図と同じだろうと僕は思う。  くわしい分析はのちのこととして、『ブルネッレスキ伝』にある他の図を見てみよう。板絵に描  かれた絵は下のようなものだった。


図39(中央公論美術出版『ブルネッレスキ伝』より)


 「白と黒の大理石の色まで分かるほど、非常に正確に描かれて」いたとマネッティはいう。
 「白と黒の大理石」!!
 おそらく、このサン・ジョヴァンニ教会の床のことではないかと思われるのだが、それではデュ
 シャンの「遺作」の床に敷かれていたリノリウムはどうだったのか。それが以下の写真だ。


図40(『遺作解体マニュアル』より)


 わざわざ「白と黒の」リノリウムを敷いた意味は、この覗き板絵の暗示であったとも考えられる。

   さらに、『ブルネッレスキ伝』にある重要な図の最後が以下。


図41(中央公論美術出版『ブルネッレスキ伝』より)


 これはブルネレスキが透視図法でシニョーリア館の広場を描いたものを、マネッティの文章から
 アレッサンドロ・パッロンキ教授が想像復原した図である。図中の下方にある方眼は、つまり館
 の前にある広場を俯瞰で描いたもので、左下方には館の角の部分が確かに区切られている。
 ある割合で俯瞰図にしたものを、透視図法によって“立て”、対応関係にしたということになる
 だろう。

 一方、デュシャンはチェスのオポジション研究において、やはり対応関係を重んじていた。 


図15(『オポジションとシスタースクエアは調停される、によって』より)


 同じく覗き穴によって「遺作」を作ったデュシャンは、ブルネレスキによる透視図法とは異なっ
 た対応関係を考えていたと僕は考えている。

 もともと、図38の装置は“覗き穴と鏡によって三次元を二次元に対応させ、閉じこめる”もの
 だった。だとしたら、「遺作」は“覗き穴によって四次元を三次元に対応させ、閉じこめる”も
 のである。透視図法ではなく、おそらくはオポジションから得られた対応関係を利用することで
 デュシャンは「遺作」を作り、例えば「大ガラス」のような“向こうが透けて見える鏡”を使う
 こともなく、作品を完成させた。ここでついに鏡は消えたのである。

 また、「遺作」の中の首なし女性は「腕」を掲げている。「腕」はまさしく「ブラッチョ」で、
 その頂点にデュシャンは投影用に使っていたガス燈を持たせている。ブルネレスキのように現実
 の雲を動かすことはせず、そのかわりのように背景に安っぽい機械仕掛けで滝の水の錯覚を置く。

 さらにまた、余談になるが、近年、デュシャン研究の中で最愛の愛人であったマリアの名を出す
 人がある。
 デュシャン作品で使われる性器の型をマリアと関係づけることもあるらしいし、むろん「遺作」
 の中に横たわってこちらに性器をむき出しにしている女体をマリアと重ねる向きもある。
 少しだけその研究に近づいて言っておくと、ブルネレスキの板絵(サン・ジョヴァンニ教会)
 が描かれた位置は、教会を含んで建つサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の入り口で、
 つまり「花のマリア」に足を踏み入れてすぐの場所なのである。

 ブルネレスキの板絵と、デュシャンの「遺作」は関係している。  なにしろ、ブルネレスキはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に今も眠っており、すなわ  ちあの覗き穴は“自分の墓所を鏡の空間に閉じこめたもの”とも言えるからだ。   もうひとつ、関係を示唆する事実が『ブルネッレスキ伝』の中にあるのだが、それはミシェル・  テヴォーによる復原図(図37)をマネッティの文章によって否定することから書き出されなけ  ればならない。   



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