55-7-7(宮川淳 6/3)
ルーセルの遺書を提供いただいた岡谷公二さん(言わずとしれた『アフリカの
印象』その他の訳者である)から、以前ハガキをいただいた。
そこには短く“宮川淳氏がルーセルとデュシャンのチェス的思考による結びつ
き”について何か考えていたようだという示唆がある。ただし、宮川氏はチェス
を知らなかったのであまりその考えを発展させなかったのだ、という。
その文面を読んだとき、なぜか素直に「ああ」と思った。
数少ない僕の読書歴の中で、宮川淳という人は特異な印象があり、苦手な美学
系の本であるにもかかわらず、その著書が刺激的だったからである。
そして去年の暮れまで、僕は忘れていた。
自分が昔読み、あちこちに折り目をつけていた本のタイトルが『鏡・空間。イマ
ージュ』であったことを。
唐突に思い出して、僕は飛び上がるほど驚き、すぐに再読してみたものである。
特に七つの文章に分かれた第一章『鏡について』。
それは「ルーセルとデュシャンのチェス的思考による結びつき」に関するヒント
どころか、彼ら二人とソシュールをつなぐ鍵にもなるような思索であった。むろん、
宮川淳はルーセルともデュシャンともソシュールとも言っていない。
だが、彼はある作家の『おしゃべり』といういわばメタフィクション的な作品を
紹介し、その作家ルイ=ルネ・デ・フォレの一節を引きながら(「このぼくと、い
まこれらの文字をつくりだしつつある右手の所有者とを同一視することができるの
だろうか?」)、こう書いているのだ。
「 《ぼく》の存在そのものの曖昧性はここから生まれる。(略)それは書くことの
根源的な体験--鏡の体験、二重化の体験であり、多かれ少なかれ、一人称の小説、
いや、すべての小説に内在する曖昧性なのだ。というより、フィクションとはお
そらく、この二重化の危険な体験のいわば制度化によるエグゾルシスムではなか
っただろうか」(注・エグゾルシスムは悪魔払いのことである)
また宮川氏はこうも書く。
「非人称的な<書く行為>と<読む行為>とによってたえず二重化されなければな
らないこの鏡の空間」
「僕は右腕をあげる、とただちに左腕が答える……このすぐれて鏡の空間であるも
の、一冊の<本>」
作家と、作品内に現れる語り手。
この同一化出来ず、また反対に隔離も出来ない関係をどう定位したらよいかに迷
って、僕は数年の間、小説が書けないでいる。
考えなくてもいいことを考えていると思ってきたのだが、「フィクションとはお
そらく、この二重化の危険な体験のいわば制度化によるエグゾルシスムではなかっ
ただろうか」という宮川淳の問いかけに、僕は「その通りだと思います!」と答え
たい。その悪魔払いをせずに書くとはどういうことか、それがわからずに足踏みを
しているのです、と。
新しい人称を使うことは可能かと考え、横光利一が言っていた「第四人称」など
という冗談をともすると真に受けてしまう僕に、宮川淳は「非人称」という突破口
を与えてくれたのである。
技術の問題ではない。
鏡に入り込み、作家の意識も読者の意識も捨てるような「本の空間」に入るため
の非人称だ。
以上のことは長い説明なしでは実感してもらえないだろうから、またいずれ書く
として、目下の問題はなぜこの宮川的な思考がソシュールらをつなぐのか、だ。
宮川氏は“たえず二重化されなければならない”鏡の空間は、「語るというそれ
自体の運動における言語そのものの現前」だと言っている。
<書く行為>と<読む行為>と名指したからといって、それは作家独自の問題を
語っているのではなく、彼はあくまで「われわれの言語の根源的な体験」のことを
言わんとしているのである。
言語の根源そのものに鏡の空間性がある。
宮川淳はそう言うのだ。
これは僕にもまだうまく説明が出来ない。
だが、これまで「55ノート」で巡ってきたことの核心のひとつが、その思考の
中にあることにはもはや間違いがない。
ソシュールがたえず言語を二重化して考え、しかしすべてに失敗してきたこと。
ルーセルが決して通常のフィクションを書かず、作品の中に現実は何ひとつ反映
してはならないと思い詰めながら、文字を断片化し再構成し続けた理由。
(ちなみに、ルーセルの処女作は『代役』、つまりドゥブル(二重化)であった)
デュシャンが大ガラスや「遺作」で作り上げようとした、もうひとつの鏡(ガラ
スを使うことや、覗き穴をのぞかせることの理由のひとつを、僕は異次元の鏡を創
造しようとしたことにあると考えている)。
そして、何よりもチェス。
宮川淳はたぶん三人と同じ問題の一歩手前にいた。
1933年に生まれ、1977年に夭折したゾロ目の人、宮川淳は「55ノート」
の鍵を握るのにふさわしい。
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