55-7-4(ベルクソン代入 3/21)
代表的著作『時間と自由』の中で、ベルクソンは何度も“空間に投影された時間”という
言葉を使っている。フランスの文人たちの思想に大きな影響を与えたこの著作はまた、ルー
セルを縛っていた可能性が高い。
そう仮定してみると、あのルーセルの言葉「マス目というものは(特にポーン・エンディ
ングにおいては)空間の中に投影された時間をあらわしている」がベルクソン経由の
定義であったとしてもいいはずだ。
さてそれでは、ベルクソンの“空間に投影された時間”はどのような文脈で語られている
かといえば、必ず批判としてである。時間は純粋持続であるべきで、すなわち時間は“質そ
のもの”であって、均等に計測されるような“量”ではない、とベルクソンは言うのであ
る。この場合、均等に計測されるような量とは「空間」のことだ。したがって、時間を空間
に投影し、それを均等に計測するような認識は人間にありがちな怠惰だということになる。
このように“空間に投影された時間”という言葉は、いわば事後的に世界をとらえて“あ
あだったから今こうだ”と考える線的な思考への批判である。とすれば、ルーセルにベルク
ソンを代入して考えるならば、あの「マス目というものは(特にポーン・エンディングにお
いては)空間の中に投影された時間をあらわしている」は単に事実の表明などでは
なく、何かへの批判だということになる。
ベルクソンはまた、空間そのものの性質についてこんなことを言っている。
「過ぎ去った位置については何ひとつ残らぬ」
「空間は先行する振動のいかなる痕跡もとどめない」
「二つの物質は同時に同じ場所を占めることはできぬはずだ」
これはソシュールの“手は先行する盤面と切れている”という激しい認識に通じている。
時間経過の中で“あれの次はこれ”と認識することは、実はすべて事後的な思考ゆえに存
在する考え方であって、純粋に空間をとらえるならばやはりどんな一手も“先行する盤面と
切れている”のである。「空間は先行する振動のいかなる痕跡もとどめない」とはそういう
意味である。
今ある空間は前にあった空間とは絶対的に違う。なぜなら「二つの物質は同時に同じ場所
を占めることはできぬはずだ」からであり、その「不可入性」が物質の性質なのだ。だから
こそ、空間において「過ぎ去った位置については何ひとつ残らぬ」のである。
“手は先行する盤面と切れている”とソシュールはいう。
ソシュールのその言葉は、チェスをやる者にとってさえ難解である。ひとつの盤面は、常
に先行する盤面に依存していると考えるのがボードプレイヤーの常識だからだ。だが、盤面
を空間としてとらえれば、究極的にはやはり「過ぎ去った位置については何ひとつ残らぬ」
のでなければならない。“ああだったから今こうだ”と考えるのは、時間を空間に代入し、
しかも時間を等質的に、つまり量的にとらえて並べてみせることと同じだからだ。そのよう
に思考することは、時間を時間として純粋に取り出すことと矛盾する。時間を空間に投影し
たからこそ、“ああだったから今こうだ”と事後的に考え得るのであって、それでは時間を
時間として純粋にとらえ、空間を空間として純粋にとらえたことにはならないのである。
とすれば、ソシュールの“手は先行する盤面と切れている”という言葉は、厳格に言語の
純粋時間性を取り出してみせたことによる思考、または純粋に空間性をつきつめた考えに裏
打ちされており、いわば“質としての言語”をあらわしていたと考えることが出来る。
さて、ルーセルに戻る。
ルーセルの言葉をベルクソン的に「怠惰な内的把握」に対する批判として読めば、それが
何に対する批判かということが問題になる。これまで紆余曲折を経てきた我々には、その何
かは判然としている。まさに1932年に出版されたデュシャンの『調停される』がそれであ
る。いかにオポジションの精緻な分析であるとはいえ、それは“あれの次はこれ”と線的に
世界をとらえる思考の内部にあるからである。“あれの次はこれ”というチェス的な読み
は、すべて事後的に事態を把握し“時間を量としてとらえる”、“時間を均質的な空間と混
同してとらえる”ことにしかならないからである。
ソシュール的な思考に準拠すれば、常に“手は先行する盤面と切れている”。したがっ
て、“あれの次はこれ”というような(たとえそれが数百の可能性すべてを勘案したのちの
筋道であれ)、静態的な世界把握の方法は禁じられている。「空間は先行する振動のいかな
る痕跡もとどめない」以上、一瞬間に存在する空間はいつでも新しいものであり、次に現れ
出る空間配置が読めないものでなければならないのだ。
ルーセルの言葉が意味を持つとすれば、デュシャンの“あれの次はこれ”とする一般的な
チェス思考への批判である。どんな一手も“先行する盤面と切れている”とするならば、
デュシャンが研究したようなポーンエンディングにおける駒の必然的な動きはすべて無駄で
ある。
私の考えでは、ルーセルはそのようにデュシャンの研究を批判した。
それはわかりやすくいえば、“人生はいつも新しい”という思考による批判である。
未来のことはその時になってみなければわからない、という批判と言ってもいい。
いや、言語は常にその一瞬間に成立するものであり、続く未来に成立するかどうかは不明
であるというような認識そのものである。
ルーセルは『調停される』をそのようにこきおろしたのだ。
あたかもソシュールの言語観に準じるようにして、次の一手が“先行する盤面と切れてい
る”ことを、純粋持続としての時間の内部においては何ひとつ定められた事柄はなく、我々
は常に自由であることをルーセルはデュシャンに突きつけたのである。
ならば、『遺作』はそのルーセルの批判に答えるようなものでなければならない。
ベルクソン自体に対する批判、あるいは『調停される』を自己批判してベルクソン的な世
界把握を表象するような作品でなければならない。
言語は常にその一瞬間に成立するものであり、続く未来に成立するかどうかは不明である
というような認識。それがソシュールにおけるチェスの比喩の根幹である。同じ言語が次の
瞬間に同じ働きをするとは限らず、前の瞬間における働きを今するとは限らないというよう
な認識。ソシュールにおいて、言語はいつでも位一瞬間に成立してしまう奇跡の質として
あった。そうでなければ“手は先行する盤面と切れている”などと言いはしないはずだ。
通常チェスにおいて、定跡を含む研究はすべて“あれの次はこれ”という思考によって成
り立っている。むしろ、“手は先行する盤面と切れている”という認識こそが異常である。
しかし、ソシュールはその異常なチェスへの認識をもととして、言語=チェスという比喩を
使用し続けた。チェスをそのようなものとしてとらえた上でチェスの比喩を多用した。
それはルーセルのチェス把握と同形であるといえる。
ソシュールにおいて、チェスはそのようなものであった。
ルーセルにおいても、チェスはそのようなものとしてあった。
ひとりデュシャンだけが、1932年、チェスを見誤っていた。
ソシュールやルーセルが、ベルクソンを経由して“質としてのチェス”という観念を持っ
ていた可能性がここにあらわれたのである。
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