55-7-2(『キングの決闘』について 1/27)
バランスを考えてノートを書くことがもはや出来ない。
暴走する。暴走する中盤戦。
頭に入る程度には訳してみて、やはり『キングの決闘』は異様な秘密の横たわった文
章なのだと実感せざるを得ない。それでこうして、眠れないまま朝の四時半に起き出し
てきて丹前をはおり、タオルを首に巻いて書き始めてしまっている。
『レシキエ』1933年二月号。
二月号ということは、雑誌の進行でいえば前年十二月頃に締め切りがあったのではな
いかと推測出来る。そして、ルーセルは翌一月、公証人あてに「遺書」を預けているのだ
った。死のうとする意志がはっきりと見える時期に、『キングの決闘』は存在している。
もはやしゃべるのもままならなかったとされるルーセルの晩年。『新アフリカの印象』
をほとんど未完の状態で出版したルーセルが、その生涯の最後に公に“書いた”文章がつ
まり『キングの決闘』とも言えるように思う。
たとえタルタコーバが綴った文であれ、それはルーセルの名を冠して世に出、しかもあ
の言葉をもって締めくくられるのだ。
「マス目というものは(特にポーン・エンディングにおいては)空間の中に投影された
時間をあらわしている」
この短く抽象的な、謎めいていながら同時に本当はたいしたことを言っているわけでは
なく、たとえば「我々は息をしないと生きていられない」とでもいうようなごく当たり前
の事実を言葉遊びで難解めかしているだけだとも思える一文。
僕には、この一文こそがルーセルの『遺書』そのもののように思えて仕方がない。
かつて、デュシャンの『遺作』のタイトルを僕はこう訳してみた。55-6-3。
「1.時間 2.投影 そして空間 さあ詰めなさい」
二人の最後の言葉は同一である。まったく同じ内容として、彼らの生の最後にある。
この同一性の証拠のひとつが、『キングの決闘』中の「遠いオポジシヨン」の出現その
ものである。ルーセルの“最後の言葉”もまた、デュシャンの最後の作品同様、オポジシ
ョンに関係するものだったのである。
『キングの決闘』において、「引き分け」とされた最後の盤面の状態をここに再現してみ
る。
図33 |
暴走しているように見えて、これまでと同じことの繰り返しを書いているように思える のだろう。だが、同じことのズレの中にこそ暴走はある。対称に見える非対称が最もやっ かいなズレであるのと似て。 なぜなら、僕は上掲の図33の、つまりはルーセルが最後に示したオポジションの図形 の中に、デュシャンの『遺作』のオポジション構造が重ね合わせられないかと考え始めて いるからである。 それも対称のような非対称の形で。
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