55-6-8(コミュニケーションのアナグラム性 12/23)



 ことはテヴォーを離れている可能性もある。  ましてや、ソシュールから遠い。  それでも、少し「対掌的」な事柄について考えてみる。

 たとえば、他者が部屋に入ってきて「指が痛い」と唐突に言ったとしよう。


図18

図19
   図17がその状況を仮にあらわす。  そして、図18はまだ言語コミュニケーションに慣れていない幼児の理解 である。「指が痛い」という言葉を聞いて、幼児が自分の指をしげしげと見 ることがある。それは発話における自己と他者の区別が出来ていないからで、 「指が痛い」という言葉をあくまで自分の側から理解してしまうからだ。  この「発話方向の理解」とでもいうべき問題が、コミュニケーションの大前 提だということがわかる。 「(私の)指が痛い」という確定記述が事実を指すかの判定以前に、それがど の方向から発せられ、どの方向に届けられているのかの判断が必要なのだ。

 幼児は言語を覚えたての頃、「そっち」と「こっち」を何度も確認する。 自分にとって「こっち」でも、母親にとって「そっち」であることがなかなか 理解出来ないからである。だから、彼らは何度でも「そっち」と言い、その度 に別の方向を指してみせたりする。  幼児心理学ではおそらく当たり前のことなのだろうが、しかしこの「そっち」 「こっち」問題はすべて「発話方向の理解」にとてつもなく深く関係している と思われる。

 これは鏡の前で左右を取り違えることに、非常によく似ている。

 言語は常に、例えそれが「今日は雨だ」という発話においてさえ発話者の発 話方向に左右される。  部屋に入ってきた者が「寒い」と言ったとき、それが単に事実をあらわすの か(確定的)、窓を閉めるように要求しているのか(遂行的)を判断する必要 がある。論理学でよく出てくる例である。  しかし、これを「発話方向」の問題として考えることも出来るはずだ。

 ことは幼児に限らない。精神分析でよく言われる例だが、「Bが私を嫌って いる」と思い込む人間が、実は無意識に「もともとBを嫌っている」ケースが ある。人に嫌悪を持つことに罪悪感があるからこそ、自分が嫌っていることを 自分自身に隠し、感情を他者に投影してしまうのである。  それを基本的に図解すれば以下の図19になる。  自分の無意識下の発話を、相手に投影していることが図示されている。

 だが、実際に起こっていることは、むしろ図20ではないかと思われる。  この場合は下にある「私は貴方が嫌いだ」が自己の側にあって読みやすい が、無意識下で生じているのは逆だといってよい。上にある読みにくい鏡文字 こそが自己の心理であり、その隠された鏡文字が相手に投影されて初めて、憎 悪というものが顕在化する。  Bが「私は貴方が嫌いだ」と言っているように思い込んでしまう。  読みにくいのが自己内部の鏡文字だからこそ、不安が増すのだとも言える。 そして、不安を解消するために他者に鏡像的投影を行ってしまうのである。


図20

図21
「たけやぶやけた」の回文に限らず、鏡像性は我々のコミュニケーションの内 部に前提されている。 「指が痛い」と言われたとき、我々はそれが相手の指のことだと判断し、しか し痛みを推測するにあたって、他者から発話された言語を自分側へとひっくり 返して理解しようとする。  だが、もしもテヴォーのいうように回文が「対掌的」なら、こうしたコミュ ニケーションにも「対掌」性が生じていることになる。 “形は類似ながらそのまま重ね合わすことのできないもの”  それがコミュニケーションなのだということになる。

 戯れに、図20に駒を描き入れてみよう。  そのコミュニケーションの方向性をチェスに“重ね合わせて”みるのだ。  


図22
    


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