55-6-6(鏡とは何か2 12/23)
さらに、テヴォーは「鏡が反転させるのは、その表面に対して垂直な軸のみである」
という。東西南北という絶対性で考えれば、鏡は実のところ縦横いずれの軸も反転させ
てはいないのだ。厳密にいえば、鏡に向かって垂直な軸だけが“折り返されて”反転す
る。床の鏡が“上下を反転”させて見えるのは、そのせいである。
鏡に垂直な一点々々。
それが鏡像の中に“折り返されて”一対一対応している。
鏡はそれのみを反転させる存在なのである。
そこで、彼はこう定義する。 「私は鏡像を対掌的と形容することにする。これは形態論的あるいは位相的反転を指す 幾何学用語である(右の手袋と左の手袋のように、形は類似ながらそのまま重ね合わす ことのできないものを形容する用語)」
これまで僕はチェスの世界の特質を鏡になぞらえ、そこでは「左右が反転」すると書 いてきた。 55-6-4でも、「左右上下が反転する」と書いたばかりだ。 だが、それらの表現は厳密ではなかった。 もしも、そこにあるのが鏡の世界ならば、向かい合うもの同士が互いを垂直に“折り 返す”というべきだったのだ。だからこそ、互いは“形は類似ながらそのまま重ね合わ すことのできない”状態の中にある。 つまり、テヴォーのいう「対掌的」な世界の中にあるというべきなのである。
デュシャンのヘテロドックス・オポジションを、単純に駒同士の鏡合わせと見てはな ならいということにもなる。シスタースクエアは“双子マス”とはいいながら、同一な るものが絶対的な異質性を持って対応しあう法則のもとにある。そう考える必要性が生 じてきたのだ。 しかし、ここではまだ鏡そのもののことを考えよう。 そして、言語の鏡像性という仮説のことを。 さて、鏡の中の自分を自分と重ね合わせることは出来ない。 それはきわめて似ていながら、ひたすらずれている。 たとえば鏡像を写真に写して等身大に焼き、自分と重ね合わせようとしても無理であ る。あまりにも似ている像でありながら、それは垂直軸にしたがって反転している。 それはまさしく「対掌的」なのだから。
刺激的なことにテヴォーは、こうした「対掌的」なものは言語学や修辞学の中にもあ るといっている。回文がそれだというのである。 どちらから読んでも同じ文になる、あの回文である。 ただ、この理解がまた難しい。 しかし、このことを考えれば、鏡とアナグラムに固有の関係を打ち立てられるかもし れない。そういう予感だけはある。
ああ、俺の頭がもっとよければ……。 そうすれば問題はすんなり見えてくるんだろうに。
なぜだ。 なぜ、俺の頭はこんなにも悪いのだ!
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