55-6-5(鏡とは何か 12/23)



 鏡の中の世界は奇妙である。  その奇妙さを人はこう言い表す。 「鏡の中の自分は左右逆に映る。けれど上下は反転しない」  だが、これは事実ではない。

 鏡を床に置いて、その上に立ってみれば“上下も反転”するのである。鏡が天井にあ っても、そこで“上下は反転”する。  下が上になり、上が下になる。

 では、なぜ人はその“上下の反転”を忘れて鏡に見入るのか。  たとえばあの朝永振一郎は“鏡の中の世界は物理的な空間ではなく、心理的な空間で ある”というようなエッセイを書いているらしい。  今年邦訳が出た『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』というミシェル・テヴォーの 美術史論にも、このへんの心理的な空間性のことがわかりやすく説かれている。  鏡の中の自分を見て“左右が逆だ”と思うことそれ自体が、実は心理的な罠なのであ る。テヴォーのいう通り、方位で考えてみればいい。両腕がそれぞれ南向き、北向きに 位置している場合、鏡の中の自分の腕もまた南向き、北向きに位置している。  南側の手が煙草を持っていれば、鏡の中の煙草もまた南側の手によって持たれている のである。ここにはなんの矛盾も不思議もない。

 つまり、我々はなぜか左右という心理上の軸によって物事を把握してしまうのである。 常に方位を認識したがるような文化が強固であれば、おそらく人間は鏡の中に心理を持 ち込んだりはしない。  朝永振一郎は「心理的空間には上下の絶対性と、前後の絶対性がある」というような ことを言っているようだ。上下前後は絶対だと人間は考えるからこそ、左右だけは転換 可能だと考えやすいということだろう。だからこそ、鏡が上下の反転をすることを忘れ る。

 話はテヴォーに戻るが、この“左右”に惑わされること、左右という軸で物事を把握 しようとすることは、「自らの右側と左側の(まったく相対的な)類似性を受け入れて いる」ことによって起こる。右半身が左半身に似ているからこそ、我々は自らの身体の 右半身が鏡の中で左半身になってしまったと認識する。たとえ、右半身に障害を持って いてもことは同じだ。なぜなら、我々を取り巻く世界そのものが左右対称であるかのよ うに出来ているからだ。そこで心理上、左右の取り違えがすんなり受け入れられてしま うのである。

 我々は鏡を見て真実をとらえるのではない。  鏡の中が見えるとき、我々はすでに幻想を見ている。  物理的ではない心理的空間がそこにあらわれる。

    



INDEX

Copyright (C) SEIKO ITO , EMPIRE SNAKE BLD,INC. All rights reserved.