55-6-4(ソシュールの鏡 12/22)



 これまで書いてきたソシュールとチェスのかかわりに関して、自己批判しなければな らないのは、ついつい実体論的な比喩を使ってしまうことである。  駒を変化とするというのもそのひとつだ。  気をつけて“通常想像されるような駒の群れが存在しない(ということは、実をいえ ばチェス盤さえない)”などと書いてはいるのだが、いったん「変化がある」といって しまえば、それは「関係の実体化」に結びついていく。  gast⇨gste

 こう書いて注意すべきは、gast、gsteという音韻を対として考える(変化とする) ことを大前提としてはならないという事実だ。音韻の変化はまず、対象となる語が同じ ものを指していることを前提とする。だが、gast、gsteがまったく同一のものを指し ているためには、同一のものをさらに前提することになる。  ここに実体化の罠が存する。

 素人が学者のように考えると、頭が混乱してきて何も書けなくなる。  したがって自分に注意だけをして、先に進もう。

 ソシュールの思考において特徴的なもうひとつの要素は(起源の断絶の他に)、あの 異常な二分割の性癖である。  共時、通時もそれだし、連合と統合、パロールとラング、聴覚映像と概念、そもそも gast⇨gsteだってそのひとつである。ソシュールは必ず対象を二分割して考える。そ して、二分割を次々に別な用語で言い換え、移動してゆく。  アナグラムにしても同様である。  アナグラムをまず、アナグラムとアナフォニーに分けたかと思うと、パラグラムとア ナグラムと言い出す。  そして、両者の違いを徹底させながら、思考の深い闇の中に埋没していってしまう。

 さて、言語学の基礎的な考え方である「聴覚映像と概念」という二分割に関して、ソ シュールは水面を境にした上下の構造図を用いたともされるし、これがそもそも弟子た ちの誤った解釈であるともされる。  どちらが表でどちらが裏か、厳密には言えないような水面のぎりぎりの一線。

 チェスを介して考えようとする僕はしかし、この“一線”に鏡を代入してみたらどう なるのだろうと思う。共時と通時、連合と統合、パロールとラング、聴覚映像と概念、 あるいはgast⇨gste。これら執拗な二分割の間に鏡を置くのである。  分割しても分割しても、おかしなねじれで一体化してしまい、とうとう沈黙に至らざ るを得なかったソシュールの言語学を鏡で考えてみたらどうなるのかということだ。

「私はこの比喩を手放さない」とまで言いながら、チェスと言語の通底性を強調し続 け、だが“思考の深い闇の中に埋没”したソシュールが、なぜそこまで思い詰めたか。  駒と駒の関係があり、それがあくまで記号的であるというだけで、果たしてソシュー ルが「私はこの比喩を手放さない」と言うのだろうか、という疑問が僕にはある。  むしろ、他に重大な要素がなければ、彼がチェスを言語とする意味が解けないのだ。

 その重大なチェス的要素とは何か。  あくまで直観的だが、それが鏡像性であると考えてみることは可能なのではないか。  なぜなら、たとえばデュシャンの大著においても、思考されたのは互いのシスタース クエアが作りだす鏡像性なのだから。  光と闇という二分割、その点滅、弁別的な存在性。それだけではチェスを言い当てた ことにはならない。白のキングはクイーンの右におり、相手黒のキングはクイーンの左 にいるという、チェスの非対称的な対称性。そして同時に鏡像的な対称性をもってこそ、 あの奇妙なゲームを他のどんなものとも違う比喩とするのである。

 言語の鏡像性。  水面ではなく、互いに互いを映し出す鏡を、たとえば「共時/通時」「聴覚映像/概 念」といった二分割の境に置いてみること。  だが、気をつけなければならない。 「自分自身と鏡の中の自分」などという甘ったるいイメージを持った途端、少なくとも 自分は実体であると考えてしまう。鏡像の中だけが非実体だと考えてしまう。  そうではない。  鏡に映ったふたつの像のどちらもが、決して実体ではないという仮定で考えること。  しかも、ふたつの像を同一物の鏡像だと前提せず、「まったく別のものが、なぜか結 びついて、あたかもどちらかがどちらかの鏡像であるかのように関係すること。そして、 その鏡像はいつでも左右上下が反転してねじれの関係にあること」

 ソシュールの言語観をこうしてみると、なぜかどこかで納得いくものがある。

 さて、「その鏡像はいつでも左右上下が反転して」と書いた部分で、疑問を持った人 もいるだろう。鏡は左右だけが反転するものではないのか、と。  だが、それは厳密な鏡の特性ではない。  ひとまず鏡の実際的な特性について考えてみよう。      



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