55-6-3(ルーセルの死 12/22)
1933年のまさに一月。
ルーセルは公証人に「遺書」を預けている。
ただし、こちらは1931年に作成された法律的に効果のある遺書ではない。
新しい遺書は死後、自らの書法の秘密をどう明かすかに終始している。
『レーモン・ルーセルの生涯』によれば、新しい遺書の内容にはこうある。 ちなみに、日付は一月二十日だ(修正版を五月、死の地イタリアに行く前に送ってはいる)。 「『いかにして私は自分の本のいくつかを書いたか』、もう一冊は『構想に用いるための 資料』のそれぞれを一部ずつ以下の方々に郵便でしかも書留便で郵送することを望みます」 送られる相手はロベール・デスノス、ポール・エリュアール、トリスタン・ツァラ、アン ドレ・ブルトン、サルヴァドール・ダリ、ルイ・アラゴン、アンドレ・ジッドなど22名。 自分はシュールレアリスムなどわからないと言っていたルーセルだが、誉めてくれる相手 を重要視している。ただし、ここにデュシャンの名はない。
ルーセルは何年も前から『資料』を作成しようとしていた。死ののちに明かす書法を裏づ ける「資料」。その数は偶然か、意図的かわからないが、三十二であった。 1931年に購入した墓地の、あの市松模様の三十二区画とまったく同数。すなわち、チェ ス盤のちょうど半分をあらわす数の「資料」を彼は死後残そうとしたのである。 だが、1933年の一月頃、ルーセルは「資料」の作成を放棄してしまう。 「マス目というものは(特にポーン・エンディングでは)空間のなかに投影された時間を あらわしている」 そう語ったのと同時期に、完全主義者ルーセルは焦るように死を選ぶ。 他人からの視線、賞賛を何よりも求めたルーセルにしては異様なことである。 あたかももうひとつの遺言であるかのように残されたチェス言語。 それを書き直してみるとこうなる。
「マス目というものは(特に勝負の終わりでは)空間のなかに投影された時間をあらわして いる」 ポーン・エンディング、エンド・ゲーム、勝負の終わり。 それはチェス上、最も最後の、ポーンしか残っていないギリギリの状態のことである。
もしも僕がミステリー作家なら、秘密を解くためにルーセルの墓を暴くだろう。 人生の最後に、ルーセルが生きてきた時間がすべて投影されたマス目。 それはまさに四区画の八階建てと指定された、あの半分のチェス盤の中にあると考えるか らだ。ひとマス、ひとマスがひとつずつの「資料」の埋葬場所だと判断するからである。
だが、逆にもしも僕が芸術家なら、墓を暴かずに謎を解こうとするだろう。 “空間に投影された時間”を作品化し、もうひとつのチェス盤の中に埋め込む。 それが表現者の、ユーモラスな勝負の仕方になる。
執拗にデュシャンの「遺作」に戻ろう。 死後に残すものを造り続け、完成を断念してみせる点ではルーセルを完全に模倣しており、 なおかつその作品の下に市松模様のリノリウムを敷いたデュシャンの「遺作」に。 そのタイトルはなんだったのか。 「1. 落ちる水 2.照明用ガス が与えられたとせよ」 与えられたとせよは「エタン・ドン」。数学問題などの用語でつまりは「解きなさい」と いう意味だ。すべてを放っておくデュシャンにしては、解読を要求するかのような珍しいタ イトル。これはおそらく、チェスの詰手問題にも使われる言葉だろうと思う。そうだからこ そ、リノリウムが敷いてあるとも言えるのだ。 さて、そんなことはともかく、「落ちる水」を時間の代替物として考えることが出来る。 「照明用ガス」はデュシャンが若い頃から物体に当ててその“投影”を二次元化してきた ガス燈の燃料だ。
だとすれば、「1. 落ちる水 2.照明用ガス が与えられたとせよ」というチェス問題 を我々はこう書き直すことが出来る!
「1.時間 2.投影 さあ詰めなさい」
のぞき穴の向こうが「空間」であることは一目瞭然である。 だから、“解決というものはない。なぜなら問題がないからだ”というデュシャンらしい ユーモアで考えることも出来る。なにしろ、答えは「=空間」と与えられてしまっていて、 みも蓋もないおかしさだけがあるからだ。のぞけばすぐに解答がある肩すかし。 あるいは、中にある「空間」をも「エタン・ドン」という質問の一環と考えればさらにこ う書き直すことが出来るだろう。
「1.時間 2.投影 そして空間 さあ詰めなさい」
そして、その詰め問題はあの言葉の反復である。
「マス目というものは(特にポーン・エンディングでは)空間のなかに投影された時間を あらわしている」
この意味、この秘密を知っていた二人が、二人とも我々に謎をかけている。 それを死を前にした最後の言葉として、我々に迫っている。
ようやく、ここまでは詰めた……。
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