55-6-12(「55」 1/7)
「32-32」
「R-R」
しかし、チェスにおいて上記のような記号があらわすのは決して“五分五分”という概 念ではない。これが将棋との決定的な差異のひとつである。 たとえば、もしも形勢が五分五分だとすると、それは白にとって敗勢を、黒にとって優 勢をあらわすからだ。白は必ず先手で、そのぶん“押し続け”なければならない(チェス 用語で「テンポを取る」と言われるのだが、この語彙自体、実に意味深い。「速度」「調 子」という音楽性、つまりリズムそのものが勝負を左右するということだからだ)。 白が勝つことと、黒が勝つことはしたがってチェスでは意味の重さを異にする。 白はある程度勝って当然なのであり、黒は勝つことに大きな意味を持つのである。 また、引き分けというものがあるチェスの世界において、引き分け(五分五分)は黒に とって勝利に近い意味を持つ。むろん、白にとっては敗北に近い。
「ステイルメイト」(引き分け・五分五分) それは決して白の敗北そのものではない。だが、実質上敗北に限りなく近い。 黒の勝利そのものではない。だが、勝利に限りなく近い。
この奇妙な非対称は何度も確認されてよい。 五分五分である以上、我々は両者が対称的であると考えがちである。 しかし、その対称は実質上、非対称をあらわしているのである。 もともと、八マスを基本とし、偶数的に対称の世界を持つかのようなチェスは、その実 キング、クイーンの位置を白黒が左右反対に(非対称)置いて始まるボードゲームだ。
ゲームの始めも終わりも「対称のようにみえて非対称」。 この不合理、この割りきれなさがすなわちチェスの特質である。 フランス人がチェスを「echec(ふたつ目のeにアクサンタギュ)」と呼び、「敗北」と 同じ単語を使うことの奇怪さは直観的に正しいように思われる。 白は勝利しても常にその分勝利感を割引きされている。先手である白に“完全なる勝利” というものはない。なにしろ勝って当然なのだから。チェスはむしろ黒のためにあるとい ってもいいくらいなのである。 このように、チェスは初めから「対称のようにみえて非対称」なゲームなのであり、決し て単純に鏡の比喩を用いてすむような構造の中にはない。
デュシャンのあの図をもう一度見てみよう。
図15(『調停される』より) |
点線部分は「折り返し線」と名付けられている。 互いの“死活線”(キャンプと英訳されている)はあたかもまったく同じ形のように見え る。 しかし、実はテヴォーのいう「対掌性」が働いており、ふたつの“死活線”は“左右の手 袋が重ならないように”重ならない。 デュシャンの示す通り、折り返さない限り、形は重なることがないのである。 だが、チェス盤を折り返すことなど出来ない以上、非常によく似ている白黒両陣営の“死 活線”は永遠に「対称のような非対称」の関係の中に閉じ込められている。 幸福に出会い、重なりあうことなど決してないのだ。ソシュールがたとえば共時・通時というとき、あるいはシニフィエ・シニフィアンという とき、彼が強烈に持っていた観念はこの「対称のような非対称」だったのではないか。 鏡像関係のように密接でありながら、しかし非対称であるようなふたつのものの状態。 すなわち、見合い。 OPPOSITION
「対称のような非対称」という概念はいまや、チェスと言語をつなぐ可能性を持つ。
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