55-5-1(ソシュールの四次元)



『沈黙するソシュール』(前田英樹編・訳・著)の中にある「ホイットニー追悼」のメ モを再び読もう。そこにはこうあったはずである。
「チェスを見ていると、そこで与えられる布陣はどんなものも先行する布陣と手が切れ ている。これこれの布陣に達するのに、あの道を通ったかこの道を通ったかはどうでも いい(中略)言語に対する出発点はまさにここにある」

 一方、『一般言語学講義』にはこうあった。「チェスの勝負では、与えられた随意の 位置は、それに先立つ位置から解放されているという妙な性質がある。そこへどの道を とおって達しようが、ぜんぜんかまわない」

 再三にわたって、僕はこの箇所を引用し、その“起源の断絶”について考えてきた。
 そして、ここでは“チェス的四次元”と並べて考えてみる。

 チェスプレイヤーの脳内には「たて×よこ×高さ×時間」の時空間が圧縮して存在す るに違いない、と第四章では書いた。同じようなとらえ方は中沢新一の「四次元の花嫁」 (『東方的』)にも見られる。
「チェスプレイヤーの頭脳の中に実現されるスクリーンは変化のすべての様相を未来の 時間にわたって投影することができなければならないのだから、とうぜん『四次元的』 な構造をもっていなければならないのである」

 ところが、ソシュールというチェスプレイヤーには、どうやらこの考え方とずれたと ころがある。なぜなら、多岐にわたって同時に展開する未来において、多種多数のあり うべきいちいちの盤面の状態は、常にその一手前の状態と切断されてあるからだ。
 同じように見えて、これは違う。そのことを55-1-10で、僕はこんな風に書いた。 「駒が着地した途端、その駒移動を決断させた論理が一気に消え去る」、と。
 駒が着地するかどうかは現実の問題だから、プレイヤーの読みにとってはどうでもい い。脳の中で駒の位相が変化することだと取っていただこう。ともかく一手でも先に進 めば「与えられた随意の位置は、それに先立つ位置から解放され」てしまうとソシュー ルはいうのである。
 チェス的に見ても、これはなかなか信じがたいことだ。例えば、我々は“ビショップ をまず動かし、相手を封じ込めておいてからナイトを移動させる”といった読みを行 う。もしも順序が逆であれば、相手キングがこちらの順序を読んで逃げ切ってしまう ようなケースはそれこそ常に存在するからだ。
 ところが、ソシュールはあくまでも「与えられる布陣はどんなものも先行する布陣と 手が切れている」と言い、だからこそ言語はチェスに似ていると言う。これはいったい どういうことなのだろうか。“起源の断絶”ともまた異なる強い観念がここにあるとし か考えられない。
 読みではなく、確かに一手指したあとならば、僕のようなへぼプレイヤーにもこの観 念はわかる。たとえ“ビショップをまず動かし……”という順序が想定されていたとし ても、動いてしまったあとの盤面を見れば、その“ビショップをまず動かし”た形跡は どこにもないからだ。ただ、そこには指し順を言う必要などまるでない状態があるのみ で、つまり「駒移動を決断させた論理が一気に消え去」っているのである。だからこ そ、将棋指しでもチェスプレイヤーでも、そこからまた考える。ナイトを動かそうと考 えていたにもかかわらず、それが正しいのかどうかを再び検証し直し始める。
 そうでなければ、プロの将棋差し、チェスマスターがあれほど時間をかけて勝負する はずがない。確かにビショップを移動させ、相手が読み通りの手で応じてきたからと いって、プロのプレイヤーはすぐさまナイトを動かすことがない。
「与えられる布陣はどんなものも先行する布陣と手が切れている」からである。
 プレイヤーの脳は、そのように我々が想像するのとは違う形で動いているのだ。

 確かに時空間を超えたように回転している。だが、それは伸びやかにつながっている ようなものではなく、刻々と切断され、次々に「駒移動を決断させた論理が一気に消え 去る」中で「論理」を考えている。
 これはこれまでに我々が考えたような四次元だろうか。少なくともむしろ、時間のと ぎれた状態がいっせいに重なるような、時間が進めるべき「論理が消え去」る中で常に 無数の真新しい現在の盤面と向き合うような、つまり未来などいっさいないような時空 間である。
 ソシュールによれば、優れたボードゲーマーは「変化のすべての様相を未来の時間に わたって投影」しているのではないということになる。おそらく、この想像しにくい脳 の状態が羽生にはある。デュシャンにもあった。そしてソシュールにも。

 そして、それが言語に似ているということになる。

    



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