55-4-12(ソシュールの野次馬 99/11/11)
1-10でも引用した『一般言語学講義』の一節をまた引く。
「チェスの勝負では、与えられた随意の位置は、それに先立つ位置から解放されているとい
う妙な性質がある。そこへどの道をとおって達しようが、ぜんぜんかまわない」
その続きはこうである。「勝負を始めから観戦してきたものも、火急の情勢をのぞきにき
たやじうまに比し、いささかの特典ももたない。そのときの位置を記述するには、10秒ま
えにおこったことを想い浮かべる必要は毛頭ない。このことは言語にもそっくりあてはま
り、通時論的なものと共時論的なものとの根本的区別を裏書きする。言は一つの言語状態し
か扱わず、状態と状態とのあいだに入り込む変化は、それじたいとしてはそこに居座ること
はできない」
これがどのように“通時論的なものと共時論的なものとの根本的区別を裏書きする”か
は、僕にはよくわかっていない。「居座れない変化」が通時論的なものだとすれば、通時論
的な、いわば「変化それ自体」を観察することは出来ないという意味程度にしか。
それよりも、僕がひきつけられるのは「火急の情勢をのぞきにきたやじうま」の存在であ
る。野次馬はいきなり来て盤面をのぞく。そして、状態を理解する。過去の駒の移動順序を
知らずに、しかし野次馬は駒と駒の関係を、チェスの情勢を知る。
この野次馬に前項の“他者”を導入して考えてみよう。柄谷はそもそも「教える立場/習
う立場」というタームで“他者”を考えたのだった。教える立場が意味を支配しているので
はなく、普通考えるのとは逆に、習う立場こそが意味を成立させていると柄谷は転換したの
だ。教える立場はむしろ自分の言っていることに意味があるかどうか、あらかじめ知ること
が出来ない。それを柄谷は実に平易に“まったく言語を異にする外国人”に話しかける場合
を例にとって説明している。タイ人に日本語で話しかけるとき、確かに我々はそれが伝わっ
ているのか知ることが出来ない。だが、じきに相手が意味を見つける場合がある。ああ、サ
イアム・スクエアに行きたいのかといった反応を示す。そのとき初めて意味が成立する。事
後的に意味が見出される。
さて、ソシュールがなんの気なしに提出した野次馬の比喩。だが、この野次馬こそがチェ
スを成立させると考えてみたらどうなるのか。ソシュールはここで盤面をはさんで対局する
人間を描いてはいない。だから、対戦者は二人ともいないかもしれないし、たった一人かも
しれない。ともかく、駒の関係がそこにある。野次馬はのぞきこみ、やがて駒の関係する
「位置を記述する」。
そのとき初めてチェスが成立すると考えてみたらどうなるのか。事後的に成立するような
チェスとは、つまりゲームとも思えないようなゲームである。しかし、なぜかゲームとして
刻々と成立してしまうとしたら。この野次馬さえ想定してしまえば、同じ存在を対局者とし
て設定してもいい。
確かに、あらかじめ決められたゲームの規則にそって行われているのがチェスである。だ
が、その規則を前提にしてソシュールの“チェスの比喩”を解釈する限り、入門書レベル
の、つまりはラングという言語規則があって、その上で我々は言語を使用するという素朴な
論しか出てこなくなる。それはつまり、起源を設定する思考から出てくる考えであって、あ
れほどの切断を目論んだソシュール的ではない。
対局者も自分の駒の移動がゲームにかなっているのかどうか、わからないようなチェス。
それをチェスたらしめているのは“他者”のみであるようなチェス……。
しかし、これは別段抽象的な話でもない。手を考えているとき、プレイヤーはよくこんな
状態におちいる。宇宙サイズに広がった盤面、二次元的に平面ではない盤面、いや盤面など
もはやなく、駒と駒の力関係だけがあれやこれやとうごめき、自分が指そうとする手がゲー
ムにかなっているのかどうかさえわからなくなってくるのだ。
野次馬という外部者が(それは対局する相手でもいいのだが)成立させるようなチェス
を、しかしなぜ僕はわざわざ想像してみようとするのか。
それは「遺作」というチェスを考えるのに有効だと思うからである。
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