55-4-11(ソシュールの言語 99/11/11)



 ソシュールは「ジュネーヴ大学就任講演」にあたっての草稿の中でこう書いている(『沈 黙するソシュール』前田英樹)。
「言語は有機化されてもいなければ、自分で死滅することもない。衰えもしなければ成長も しません。そもそも言語に幼年時代とか壮年時代とか老年時代とか、そんなものはありはし ないからです。そして最後に、言語は生まれることさえありません」
 ここにも起源を求める思考への激しい切断がある。
 生まれもせず、衰えず、成長もせず、死滅することもない。
「不生不滅 不増不減」
 ほとんどこれは般若心経である。仏典にはまさにこの「生まれもせず、衰えず、成長もせ ず、死滅することもない」という宇宙の姿が再三とらえられている。天台の三諦論を思い出し てもよい。
 宗教哲学に故意に結びつけてソシュールを理解しようというわけではない。ただ、起源へ の誘いを絶つためには一般的な想像による安易な思考を捨て去るだけの脳が必要であり、お そらくそれがどこかで共通点を持つ。

 柄谷行人はかつて『内省と遡行』というすさまじい思考的格闘の書物(のちに浅田彰をし て「敗北の書」と呼ばしめる長大な論考だ)の中でこう書いた。
「われわれは、『言語の発生』に関して、発生論的・歴史的に語ることを許されていない。 どのように語ったとしても、そのときすでに言語が可能にしたものが暗黙に前提されてしま うからだ。(略)われわれはそれを発生論的にではなく形式的(論理的)に突きつめるほか ない」 
 これがつまり自己言及のパラドックス。言語について言語で考え、言語で語ることは自己 言及のパラドックスを引き起こす。集合の和の中にいながら、集合全体を見るような視点は あり得ないと言っておこうか。
 さらに、55-4-1で「ドミノ倒し」について僕は書いた。いったん起源を仮定すれば、“起 源において内部化されてしまった言語”はドミノ倒しのように現在の我々の内部まで到達 し、結局「言いたいことは自動的に言葉になる」という非科学的な結論を導き出してしま う。  では、この「ドミノ倒し」を反対に“起源を断絶する思考”において行ったらどうなるの か。「生まれもせず、衰えず、成長もせず、死滅することもない」ということは起源がない ということである。その起源のなさはドミノ倒しのように現在の我々に至る。すると、どう なるか。
「今しゃべっている言語にも起源がない」ということになる。今こうして書いている言葉に も起源、すなわち基盤はなくなる。言語が内部から来ないというのは歴史的な問題なのでは なく、今現在においても言語は内部からは来ないということになる。

 柄谷行人は『内省と遡行』において激しい思考的戦闘を行い、敗北した。「意味はどこか ら来るのか」をたどり、厳密にたどろうとすればするほど撤退した。しかし、彼は最後に突 然「転回のための八章」を書きつける。そのあまりに平易な文章は、密林の中からふと見晴 らしのいい平野に出たかのような爽やかさに満ちている。その「転回のための八章」が、あ の『探求』につながっていく。
 そこで柄谷行人が言ったことは、驚くほど簡明な事実なのだった。
 意味は他者に受け取られたとき見いだされるのであって、自己内部からは来ない。
 もともと意味があると前提されるような言語はなく、他者が意味があるとするからこそ成 立するに過ぎない。ここでは、それを“非意味な音から他者が言語を発見する”と言い換え てしまおう。
「テクストそのものに『意味生産性』があるかのようにいう“神秘主義”をしりそぞけてお くにとどめる(テクストはまったく無意味である)」と柄谷はいう。それはソシュールのア ナグラム研究、またその研究に意義を見いだすクリステヴァらへの批判だろう。だが、テク ストに内在する意味生産性はなくても、その無意味な文字の配列から他者が何事か意味を成 立させてしまうのだとしたら、それこそがソシュールのアナグラム思考そのものなのではな いだろうか。

           



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