55-3-6(タルタコーバの謎の生涯)



 ザビエル・タルタコーバ。

 かつてデュシャンと渡り合い、死の前年のルーセルにチェスを教え込んだこの男の人生は、 調べれば調べるほど謎に包まれてくる。

 タルタコーバ自身の著作に付いている略歴やインターネット経由の情報によると、彼は一八 八七年二月九日にロシアはドン川沿いのロストフで生まれている。父母はそれぞれオーストラ リア系、ポーランド系のユダヤ人だ。

 ところが、わずか十二歳で彼は国を出る。本人の著作からは割愛されているが、なぜか両親 が殺されてしまったのが原因だと思われる。それが一八九九年。第一次ロシア革命が起こるわ ずか六年前だ。

 しばらくどこにいたのかが不明ながら、一九〇四年にジェノバ大学に入学し、一九〇九年に はウィーンで法律を学ぶ。また、その直前、一九〇六年には現西ドイツのニュルンベルクで行 われた公式チェス大会で優勝してもいる。まるで何者かに追われてでもいるような矢継ぎ早な 移動である。

 第一次大戦ではオーストリア・ハンガリー軍に所属とあるから、彼は汎ゲルマン主義側につ き、汎スラブ主義と戦ったことになる。となれば、両親を殺したのはロマノフ王朝の勢力なの かもしれない。彼らは共産主義者、少なくとも反政府主義者だったのではないだろうか。

   降伏したあと、一九二四年からパリに移住。

デュシャンとの公式対局はその五年後だが、同じくハイパーモダン・チェスを引っ張っていた からには、それ相応の交際があったと推測出来る。だからこそ、カフェで見たルーセルのこと だけを言うのが怪しいのである。

 それはともかく、タルタコーバはパリにも腰を落ちつかせなかった。一九三〇年から九年 間、彼はポーランド代表として国際試合に出場し続けるのである。それも「ポーランド語を一 切話せない」状態で。

 時にポーランドではピルスズキーがクー・デタで独裁政権を作り、反ソ政策でナチスに接近 していた。タルタコーバが代表を引き受けた一九三〇年には、九月の選挙でナチスが一挙に一 〇七議席を獲得している。ドイツの狙いに対抗してイギリス、フランスがポーランド独立を保 証したのが一九三九年だから、彼はナチス出現から独立までの時期を母の祖国代表として過ご したことになる。

 ようやくフランス国籍を取るのが一九五〇年。そして、六年後に死去。

 この流転の人生から痛烈に感じるのはロシア憎しの思いだろう。父の祖国側について戦争に 参加し、母の祖国のチェスプレイヤー代表としてロシアからの独立を見届ける。タルタコーバ はある意味で生涯をロシアにあらがうことに費やしたのである。

 だが、一方で彼は過去の定跡を無視したハイパーモダン・チェスを広める。その活動は 「チェス評論のチャンピオン」という異名を取ったと言われるほどで、彼が参加した雑誌はブ リュッセルでも、パリでも、ウィーンでも、あるいはニューヨークやロンドン、アムステルダ ムからストックホルムまで、それこそありとあらゆる都市で出版されていた。

 一方ではひとつにこり固まった憎悪を燃やし続けた男である。だが、一方では何にもとらわ れず、世界各国をまたにかけた人間でもある。

 タルタコーバにはその二面性がある。

   その男が、ではなぜルーセルにチェスを教えたのか。あるいは、その定跡発見を高く評価 し、その文学を讃えたのか。

 いや、何よりもまず、なぜルーセルを後押ししてデュシャンに対抗させたのか。

     



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