55-3-5(RR)



 その事実がわかってきたのは、O君がプレゼントしてくれたあの本『plays and wins』のお かげだった。架空棋譜のずっと後ろの方にデュシャンの「chess score」なる作品の写真が載 せられており、そこにはっきりとデュシャンの文字でタルタコーバの名が記されていたのであ る。

 国際試合などの公式戦では、対局者がそれぞれの棋譜を書き留めることになっている。 「chess score」はそうしたチェス対戦において、デュシャンが取った記録をそのまま板に 貼った作品である。一九六五年に発表されたことになっているが、制作年代はわからない。

 はっきりしていることはただひとつ。その公式国際試合の相手がタルタコーバであり、ゲー ムが一九二九年に行われているという事実である。ドイツで出版されたデュシャンとそのチェ スに関する『ERNSTROUHAL DUCHAMPS SPIEL』によれば、彼らは一九二九年、なんとあ のハルバーシュタットの招きにより、パリのホテル・レジーナ内でゲームを行っているのだ。 結果は引き分け。当時、タルタコーバはハイパーモダン・チェスを主導していたというから、 デュシャンとしても引き分けは快挙だったと思われる。ちなみに翌年二月にもイタリアのニッ ツァで一戦交え、さらにそのあとパリに戻って対局しているのだが、どちらもデュシャンが負 けている。

 なんにせよ、ルーセルがチェスを始める二、三年前に彼らは真剣勝負を公式に三回行い、し かもデュシャンは引き分けに終わった最初のゲーム記録をなぜかのちになって作品化するので ある。

 そもそも、多くのゲームを体験していたデュシャンがなぜタルタコーバ戦の棋譜を選んだの かが疑問である。むろんデュシャンに聞けば「意味はないさ」と言うだろう。レディメイドの ひとつに過ぎない、と。だが、それがルーセルにチェスを教えた人間との戦いであったとなれ ば、我々にとって決して軽視出来ない意味が現れる。

 さらに面白いことに「chess score」の上の方にはどう見ても「1928」と書かれたデュ シャンの文字があり、公式記録と一年ずれている。まさか秘密の試合がと思い、記述された棋 譜をすべて確かめてみたのだが、残念ながら駒の動きは明らかに一九二九年のパリでのもの だった。ひょっとするとデュシャンは、その公式の間違いに興味をひかれたのかもしれない。  しかし、なんとも割り切れない……。そう思って、僕はチェス盤を出し、棋譜をたどって駒 を並べてみたものだった。そして、気味の悪い偶然を発見する。

 十四手目、白タルタコーバは左下端a1にいたルークをd1に持ってくる。つまり、Rd1。 対して黒デュシャンは右上端f8のルークをe8へ。Re8。つまり、もともと盤面両端にいる ルークのひとつを白黒両者が中央に移動させたわけである。

 少しして十六手目。後手デュシャンが今度は左上端a8のルークをd8に(Rd8)。タルタ コーバも負けじと十七手目で右下端f1のルークをe1に持ってくる(Re1)。

 を見ていただこう。  こうして十七手目で、盤面の中央にふたつずつのルークがそれぞれ揃び、互いに相手陣営の 端をにらんでいるという形が完成する。それも動きとしては左下端が動けば右上端が、左上端 が動けば右下端がというように、ねじれた鏡のような法則によって。

 この時、僕が盤面を見、短い悲鳴を上げざるを得なかったのは、互いの陣営中央最深部の形 を棋譜の記号で読めばRRとなり、それが鏡文字のごとく対峙しているからであった。

 RRの鏡文字。

 それがまさにレーモン・ルーセルの象徴であったことは初回に書いた通りである。

 一九二九年一月、デュシャンとタルタコーバはチェス盤の上、互いの陣営の中央にレーモ ン・ルーセルを置いてにらみ合ったことになる。

 その盤面はまさしく、同じ年に起こった現実をそのままシンボリックに現している。

 ボードゲームと現実が交差し、どちらがより鮮明であるかが僕にはわからなくなる。

 デュシャンがこの棋譜を作品化して残したことは、こうして僕にとっては明らかなるルーセ ルの存在の重さへの暗示となるのだ。

     



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