55-3-3(ポーンの意味)
「チェス盤のマス目は(とりわけポーンだけの目的にあっては)空間に投影された時間をあら
わしている」という思考は、案外凡庸に見える。チェスの駒の中でポーンだけが後退を許され
ないのだから、確かに前進した位置がそのまま時間経過をあらわすのだ。
だが、いったんそれをデュシャンの思想の中に混ぜ合わせてみると様相が変わる。我々は前 回、ポーンが相手盤面の端に到達して存在を変容させる瞬間のことを考えてみた。将棋でい う”成る”という現象が、エロティックで強度に満ち、しかも決して言い当てられない時間の 中にあると考えたのである。
ルーセルの言葉の中にある「チェス盤のマス目」を”チェス盤の端のマス目”と置き換えて みれば、それはまさにデュシャンの大ガラスを貫く思考と同一のものになる。そもそもルーセ ルは、「とりわけポーンだけの目的にあっては」と注釈を入れているのだ。この「目的」を 「最終到達地点」と考えれば、これはあながちうがち過ぎとも言えない。
とすれば、その考え方が『キングの決闘』と題されて発表されたことも意味深く感じられて くる。タイトルはデュシャンの大著への意識と同時に、二つのキングが誰と誰の比喩であるの かを示唆するものともなるからだ。
あくまでもチェス的に見れば、デュシャンの遺作に開けられた穴から覗けるのは”キングの いないオポジション状態”であった。ならばキングはどこにいるのか、と僕が前回書いた意味 もそこにある。
もしもキングがルーセルとデュシャンならば、死後『遺作』が発表される時、この世界たる チェス盤にはどちらのキングももういない。キングのいない世界にとり残されているにもかか わらず、あたかも自分がキングであるように主体性を信じて生きている我々は、その運動だけ をただただ強要され、穴のこちら側で右往左往するのみだ。
その時、どちらが死んでいるのか。
「死ぬのはいつも他人ばかり」というデュシャンの墓碑銘は、だから示唆的だ。
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