55-1-7(デュシャン生涯の略歴)



 マルセル・デュシャンは一八八七年、ノルマンディに生まれた。兄ジャックとレーモン によってチェスと絵画の道に導かれたデュシャンは、早くから才能を開花させる。『階段 を降りる裸体』の出品によってスキャンダルをまき起こした一九一二年、彼に転機が訪れ る。レーモン・ルーセル作『アフリカの印象』の舞台化から何かをつかみとったデュシャ ンは、以来「網膜的絵画」を捨て去ってしまったのである。この時、デュシャン二十五歳 。

 同年、舞台をともに見たピカビア、アポリネール、ビュッフェとともにスイス国境を縦 断するジュラ山脈までドライブをし、その最中に取ったメモ「パリ=ジュラ」をもとに『 彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』を構想する。俗に「大ガラス」と呼ばれ るその作品は、未完のまま発表されたにもかかわらずデュシャンの代表作となった(正確 には、そのメモを箱に入れた「グリーン・ボックス」にも、ハプニングによって作られた 楽譜「音楽的誤植」にも同じタイトル『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』 が付けられており、いわばすべてでひとつともいえる)。

 その後、アンデパンダン展にR.MUTTと偽名でサインした便器を出品。この『泉』がいわ ゆる”作家が作らない作品”、レディメイドのさきがけである。さらに、ダビンチの名作 『モナリザ』を印刷した絵葉書に「L.H.O.O.Q」と作品名をつけて出品してしまうなど、 デュシャンはダダの教皇と呼ばれるにふさわしい活動を繰り広げる。

 彼はまた、作品の名に言葉遊びを多用することでも有名である。例えば先の例でいえば 、「L.H.O.O.Q」はフランス語で素早く読むと「彼女の尻は熱い」という文になり(エラ ッシュオーキュー=Elle a chaude queue、もしくはElle a chaud au cul)、同時に英語 で「見よ」ともなるというように。

 一九四二年、五十五歳でニューヨークに定住。以後は”沈黙”と呼ばれる時期に入り、 ほとんど作品を作らない。そして八十一歳となる一九六八年十月にパリ近郊ヌイリーで死 去。墓碑銘は指定により、「されど、死ぬのはいつも他人」。

 だが、その死ののち「遺作」と呼ばれる作品が発表されるのは有名な話である。正式タ イトルは『(1)落ちる水 (2)照明用ガス、が与えられたとせよ』。スペイン・カダケスの 古い木の扉に穴が開いており、覗くと右奥には光の効果によって実際水が流れているかに 見える滝があり、前景に左手でランプを掲げた少女の裸体が性器もあらわに横たわってい るという謎の立体作品だ。

 デュシャンは”沈黙”の中、二十年をかけてその「遺作」を制作していたのである。



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