55-1-2 第一部「オープニング・ゲーム(序盤戦)」
例えば、ソシュールはこう言う。
「将棋の勝負は、いわば言語が自然的形式のもとに示すものの人工的実現である」「将棋 の競技が、そっくり諸種のこまの組合せにあるのと同じく、言語の特質もまた、まったく その具体的単位の対立にもとづく体系にある」
つまり、彼は”言語はチェスである”と執拗に講義するのである。
小林英夫の訳はこれまで様々な批判にさらされてきた。だが、もしも僕がその訳に不満 を持つとするなら唯一、彼がチェスを「将棋」と訳してしまったことにある。
チェスは将棋ではない。ここで挙げるべきはまず、チェスの駒には将棋のように文字が 書かれていないことだろう。これは大きな違いである。「将棋」と訳してしまった途端、 我々はソシュールの比喩を取り違える。将棋では、ひとつの駒がすでに盤外の意味を担っ ている。飛車はどこかでかすかに飛ぶ車を連想させ、金将には銀将との補完関係が生じて しまうのだ。むろんチェスにおいても駒がナイトやキングと呼ばれる以上は、盤外の想像 をかき立てるだろう。しかし、例えば棋譜においてそれらはNとかKとしか呼ばれなくなり 、表音文字の恣意的な連なりの中に意味は消えていってしまうのだし、盤上のキングをに らんでいる時、そこに王という文字が見えているわけでもない。
東西の偉大なボードゲーム、将棋とチェスの差異をきちんと見なければ、ソシュールの 比喩は我々に届かなくなってしまう。『一般言語学講義』はまた、それをまとめた弟子バ イイとセシュエの解釈にまみれていると批判されている。のちにエングラーが他の弟子た ちの残したノートを編集し始めたが、そこからさえも除外されたテキストの発表によって ソシュールの全体像がわかるのは二十一世紀だと言われているほどだ。
しかし、この”エングラー版講義”においても、チェスの比喩は変わらず使われている 。幸いにも、僕はその抜粋を入手することが出来たのである。赤間啓之氏の好意により、 エングラー版講義を電子テクスト化した中尾浩氏のデータから、チェス関連部分のみをい ただいたのだ。ゴーチェ、リードランジェ、コンスタンタンら弟子たちのノートには、確 かにチェスという文字が踊っている。
ソシュールが言語をどのようなものと考えていたのか。チェスを考えれば、ひとつの結 論が出るはずである。少なくとも、チェス的にはどうかと答えを出すことは出来る。
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